「大坂の陣合戦地域フォーラム」取材レポート

阪南大学と天王寺区が主催する「大坂の陣合戦地域フォーラム」が215日開かれ、天王寺区役所3階講堂に260名が詰めかけた。「大坂の陣」といえば、冬の陣の「真田丸」(真田山)での攻防戦や、夏の陣の「天王寺」最終決戦が有名だが、大坂城から遠く離れた泉州・河内・大和も戦場となり、真田幸村や伊達政宗が命をかけて戦った。フォーラムでは多士済々な、各地の語り部が地元の逸話や取り組みを紹介した。

フォーラムは2部構成。第1部は基調講演。「大坂の陣」に至る道のりを、史実を分析しながら掘り起こす。第2部は「冬の陣」「夏の陣」合戦地となった地域にスポットを当て、各地から招かれた11人が登壇した。

阪南大学国際観光学科の学生さんらが、厚紙で作った甲冑を着て、参加者を出迎えた。

中盤には大阪城甲冑隊の演武が行われ、フォーラムを盛り上げた。

 

第1部は中村博司さんの基調講演

 1部は「大坂冬の陣・夏の陣 ~400年の節目を迎えて」のタイトルで、前大阪城天守閣館長の中村博司さんの基調講演40分の講演を簡単にまとめてみた。

 

豊臣討滅の合戦「大坂の陣」、

家康と秀頼、二条城での対面で決定的に

 慶長19年(161411月~12月の合戦を「大坂冬の陣」、翌年4月~5月の合戦を「大坂夏の陣」と呼ぶが、45月なのに、なぜ「“夏”の陣」なのか。旧暦であった当時、1月~3月は春、4月~6月は夏、7月~9月秋、10月~12月冬という区分であったからにほかならない。


「大坂の陣」で大坂城は落城し、豊臣家は滅びるが、なぜ「大坂の陣」は起きたのだろう。

ひとつには豊臣家の後継者問題がある。もうひとつには豊臣の内部構造、つまり秀吉子飼いの加藤清正ら武功派と、石田三成を代表とする吏僚派の確執が深く関わっている。

秀吉が亡くなったとき、後継者である息子・秀頼は数えで6歳。頼りとなる叔父や甥はすでに亡くなっており、後ろ盾がない状態であった。また、秀吉が亡くなると、武功派と吏僚派の対立が一挙に噴き出し、武功派は徳川家康の元に結集するなど、豊臣家の地盤が崩れていく。

慶長16年(1611)、二条城での家康と秀頼の対面が、家康の気持ちに大きな変化をもたらした。御丈65寸(身長195センチ)と伝えられている、18歳の秀頼を見た家康は危機感を抱き、豊臣家討滅を決意するのであった。

慶長19年(1614)7月、 豊臣家が京都・方広寺の落慶にあたって新造した大鐘の銘文に、徳川が難癖をつけて豊臣を糾弾。世にいう「方広寺鐘銘事件」が起きる。その釈明に、豊臣家の 代表として片桐且元が家康の元に出向くが、且元が持ち帰った解決策は①秀頼を江戸に参勤させる ②淀殿を江戸へ人質におく ③大坂城を明け渡して他国へ移る、の3つの方策であった。これには大坂城中が驚愕、淀殿らは且元を「裏切り者」とみなし、3つの案を拒絶。豊臣と徳川がついに決裂したのである。

これは、家康が開戦に持ち込むために周到に用意したシナリオであり、豊臣家はまんまと術中にはまり、「大坂の陣」へと突き進んでいく参考記事

 

「大坂夏の陣」、なぜ泉南・河内・大和が戦場となったのか

 「大坂冬の陣」のあとに起きる「夏の陣」では、泉南や道明寺(藤井寺)・若江(東大阪)が戦場となり、大和郡山や堺が豊臣方によって焼き打ちされた。そのあたりの事情を、第1部で基調講演をした中村さんに話を聞いた。

 

 「大阪方は、冬の陣の時は、惣構堀があって三之丸が機能していたので籠城作戦を取ることができた。しかし、和睦と引き換えに、本丸堀を残して、二之丸堀、三之丸堀(惣堀)が埋められてしまい防衛機能を失ったため、夏の陣では籠城作戦を取ることはできないと、大坂方は考えた。そのため、徳川勢が大坂城周辺に集結する前に、大坂城近辺の徳川に味方する城(例えば大和郡山城)や都市(例えば)を焼討ちして、大坂方の支配下に置くか、もしくは破壊してしまおうとした泉南における両軍の激突も、徳川方の浅野長晟(ながあきら)がいる和歌山城に対する大坂方からの攻撃計画の一環であった。

 また、5月6日の道明寺合戦八尾若江の戦いも同様で、徳川方が大坂城に集結する前に積極的に野戦を仕掛けて討ち取ってしまおうとしたのである。

 

豊臣軍(大坂方・西軍)

会場入り口ポスターから
会場入り口ポスターから

         家康軍(徳川方・東軍)


「大坂の陣」、両軍の動きを追いかける

 2部に入る前に、慶長19年(161410月に始まり、翌年5月に終結する「大坂の陣」の流れを予習しておこう。

 101

片桐且元、大坂城を出て、茨木城へ出奔。

一方、この報を得た家康は大坂討伐を決意。諸将に出陣の命を出す。

  6日7日

この頃から大坂方は長宗我部盛親・後藤又兵衛・仙石秀範などの

関ヶ原牢人らを大金をもって抱え置く。

  11

家康、駿府を出発。23日、二条城に入る。

  中旬

大坂城に長宗我部盛親、真田幸村(信繁)、毛利勝永ら牢人衆が

続々と結集。

徳川方では、拠点である伏見城に諸大名が次々入城。

 1119 「大坂冬の陣」開戦(「木津川口の戦い」)
    26 大阪市の城東区域を主戦場にした「鴫野(しぎの)今福の戦い」
 124 玉造地区にある「真田丸の戦い」
    17 「本町橋の夜討ち」
    19 講和成立。21日に和議の誓詞を交換。和睦成立。
  1月末

大坂城、本丸とそれを囲む堀(本丸堀)だけを残す。

二之丸堀・三之丸堀(惣構堀)を埋め戻す。

   
  35 京都所司代・板倉勝重が「大坂方が再戦準備をしている」と駿府へ報告。
    24 家康が豊臣方に、秀頼の国替えもしくは牢人の追放を要求。

  4月4日

家康、駿府を出発。名古屋を経て、18日二条城に入城。
    7日 家康、西国譜代大名に出陣準備を命じる。
    26

豊臣方の大野治房、大和郡山城を占拠(「大和郡山城の戦い」)。

「大坂夏の陣」前哨戦の始まり。

    28日 大野治胤(はるたね)、堺市街を焼き払う(「堺の焼き打ち」)
    29 泉佐野で激突「泉南樫井(かしい)の戦い」
  56

「大坂夏の陣」開戦

  

午前、小松山(柏原市)で後藤又兵衛が死闘。午後、大坂方の後続部隊

が誉田村(こんだむら・羽曳野市)で巻き返し図る(「道明寺の戦い」)

若江村(東大阪市)では豊臣方の木村重成が奮戦するも討ち死に。

その南の八尾村では長宗我部盛親が藤堂高虎・井伊直孝の部隊と激突し、

大坂城へ撤退する(「八尾・若江の戦い」

     7日

真田幸村が茶臼山に陣を構える家康本陣に突撃するが反撃をうけ、

安井天神境内で討ち死に(「天王寺口の戦い」)。

     一方、大野治房は、徳川秀忠が陣を構える岡山口(大阪市生野区

勝山)をめざすが、途中で敗走(「岡山口の戦い」)。

大坂城炎上。

     8

秀頼・母淀殿ら主従30名、焼け残った唐物蔵(宝物庫)の中で自刃。

第2部「大坂の陣合戦地域の歴史と説話」

 2部は、11人のパネリストが次々登場し、地元に残る逸話や夏の陣ゆかりの活動を紹介した。その内容をまとめてみた。

「大坂冬の陣」を語る

玉造稲荷神社宮司 鈴木一男さん

写真まん中=肖像画・右端=玉造稲荷神社の秀頼公像


 当神社は大坂城三の丸に位置した(関連記事)ことから、大坂城の鎮守神として、淀殿と秀頼公に崇敬されました。境内には、秀頼公の胞衣塚(えなづか)(胎盤・卵膜など)があるほか、秀頼公奉納の石鳥居、これは「大坂夏の陣」で焼かれ、後に大東亜戦争でも焼かれ、阪神淡路大震災で一部損傷を受けたため、今は上下分割した形で境内に置いています。

 篤志家の寄進を受け、2011年秋、「秀頼公」の銅像を建立しました。秀頼さんはマザコンとか、ひ弱といったイメージを持たれていますが、「大変賢く、臣下となって人の命令に従うような人物ではない」と書かれている史料もあります。

 銅像は、東京芸術大学美術館に残る束帯姿の肖像画をモデルに、彫刻家の中村晋也先生に制作していただきました。秀頼公の銅像はおそらく当神社が最初で最後でしょう。これからずっと大切に守っていきます。

 

「大坂冬の陣 真田丸の戦い」を語る

「天王寺真田幸村博」実行委員会副委員長 岡田安弘さん