「大坂の陣」で徳川方が埋めた堀を発掘する

大坂城大手口を発掘

 2003年の冬、大阪府文化財センターは中央区大手前3丁目で大坂城跡の発掘調査を行った。大阪府警を新築するこの土地は豊臣大坂城の大手口に当たる場所。第1次調査では屋敷跡と思われる場所から井戸が出土。2003年秋から行われた第2次調査では大坂城の大手口にさらに近づき発掘した。

発掘現場の全景
発掘現場の全景
上の図の堀83の場所を、下の図03-1を、2003年冬に発掘調査した
上の図の堀83の場所を、下の図03-1を、2003年冬に発掘調査した

生ゴミから人骨まで出土

 掘り始めてしばらくすると、もしかしてこれは堀なのだろうか…。堀の形がはっきりしてくると、全員の中に興奮が芽生え始めた。

その興奮を高めたのが、土の中から出てくるさまざまな品物。櫓や塀の石垣を壊して放り込んだ石のほか、瓦や陶磁器、生活用品であった思われる木製品。また首を切られた馬や解体された牛の骨が多数、それに多様な魚の骨が千点近く。

さらに、行李(四角いカゴ)に入れられた女性や、ムシロに巻かれた老齢の女性、切り落とされた首など、人骨が出てきた。行李とムシロの女性は六文銭や、数珠や椀を持っていた。

驚かされたのは、漆塗りの野点(のだて)の傘の一部や、茶器・釜や、子孫繁栄を祈願した祈祷札まで出てきたことだ。

堀は全長160m以上、幅25m、深さ6mもあり、この大きな堀を迅速に埋め戻すため、どうやら周囲にあったものを手当り次第に放り込んだようである。

 

難攻不落の大坂城、城を徹底的に守る堀の仕掛け

大坂城の大手口に、これほどの堀があったとは…。その驚きがマックスに達したのは堀底が現れたときだ。

堀の底は地面を凹凸デコボコにした堀障子(ほりしょうじ)。障子の桟のような形をした独特の構造のこの堀は、敵の侵入を許さない、徹底防御の堀である。湧水や雨水が入った堀は水深1メートルほどの泥水がたまり、堀底が見えなかったと思われる。敵が堀に侵入したとしても、足を取られ、倒れこむのは必至だ。

さまざまな形で区切られた堀障子 
さまざまな形で区切られた堀障子 

この調査で班長を務めていた大阪府文化財センターの江浦洋(ひろし)さん(写真右)は「堀障子は北条氏が得意とした堀のつくり方。北条攻めで苦労した秀吉は、その手法を大坂城に取り入れたのでしょう」

「もうひとつ見逃せないのは、堀の壁面が石垣ではなく素掘りで


45の斜面だということ。45度というのは、一番上りにくく、崩れにくい角度なんです。とくに今回見つかった堀は粘土層を掘り込んでいるので、滑ってしまって、一歩も上にはあがれないはず」

 堀に侵入した敵がまんまと堀を渡り終えたとしても、45度の壁が立ちふさがり、堀から抜け出せない仕掛けになっている。

この堀が作られたのは慶長3年~4年と考えられている。秀吉は亡くなる前に、幼い秀頼を案じて、三の丸を造成し、本丸と二の丸の守りを固めるために大手口の堀を作った。

「当たり前のことですが、攻めこまれたときを想定した“本気の堀”です。この堀には、城には敵を一歩も入れないという強い意志が感じられます」

 

大坂冬の陣の講和後、徳川方が一方的に埋め戻す

発掘した遺構がいつごろのものか、たいていは1020年、縄文時代などは1001000年ぐらいの幅を持たせて、時代を割り出す。よほどのものが出土しない限り、年代を特定するのは難しい。

しかし、今回の調査では、13センチの木簡が決め手となって、1614年、徳川方が大坂冬の陣のあと埋め戻した堀だと判明した。それは、菅平右衛門(かんへいえもん)に宛てた荷札木簡、今でいうところの宅配便の送り状が手掛かりとなった。

 菅平右衛門は淡路出身の海賊衆。豊臣秀吉の傘下で水軍として活躍した武将である。慶長の役や文禄の役、小田原攻めにも水軍を率いて参陣。秀吉から直々に恩賞を受けたとわかる史料もある。

関ヶ原の戦いで西軍が破れると、菅平右衛門は領地を没収され、藤堂高虎に仕えることになる。大坂冬の陣では徳川方の藤堂高虎軍として惣構の南方、今の生玉あたりに布陣した。講和が正式に結ばれた22日の翌日から堀の埋め戻しを任されたが、「埋め戻しが遅い」と主君の高虎に注意されると口論になり、切腹を命じられ1226日亡くなっている。

 「菅平右衛門はもとは豊臣の家臣。本来、豊臣方が埋め戻すはずの堀を、約束を反故にして、徳川がだまし討ちのように埋めることに腹を立て、自分たちが埋めるべきではないという抗議を命がけでしたのだと思われます。藤堂高虎ゆかりの史料『公室年譜略』『高山公実録』にその経緯が書かれています。また火坂雅志さんの『天神の裔(すえ)』はこの話をモチーフにした小説です」

菅平右衛門宛ての木簡
菅平右衛門宛ての木簡

出土した木簡が菅平右衛門宛てだと判明したのは、大阪城天守閣学芸員の跡部信さんの協力があったからだという。跡部さんは淡路水軍の史料を集めており、菅平右衛門の名前を読み取ったそうだ。

「木簡のオモテには菅平右衛門様と、裏には鴨と書かれています。陣中見舞いとして食用のカモを菅平右衛門に送った荷札です。これが出土したから、大手口のこの堀は、大坂冬の陣のあとに埋められた堀で、埋め戻しに徳川方の藤堂高虎軍が関わっていたのだろうとわかりました」


『埋め戻しが遅い』と高虎がいらついた背景には、大名たちがそれぞれ堀を割り当てられ、だれが一番早く埋められるか競わされていたからに違いありません。同じやり方を徳川家は大坂城を普請したときにも行っています」

 

足場を組んで、組織的に、急ピッチで

人海戦術で徳川方が堀を埋めたとわかるのは、工事用の道路が姿を現したからだ。南から北に向かって板材が並べられ、板の下には土嚢(土を詰めた俵)を積み 上げ、さらにその下には瓦片を敷くなど、板材を支える基礎がそのままの形で見つかった。足場を作って、組織的に急ピッチで埋め戻しが行われた。

「堀の埋め戻しの地層は、大きく3層にわかれています。それぞれの作業単位を一日だと考えると、1日目2日目3日目と3日間で埋め戻した可能性もあります。人為的に一気に埋め戻したため、当時の状況が真空パックされたかのようにそのまま残り、まるでタイムカプセルを開けたようでした」

3日で堀が埋められたと書かれている当時の史料が発掘で証明された。

板材を並べた工事用道路
板材を並べた工事用道路
板材の下には土嚢、その下には瓦片が
板材の下には土嚢、その下には瓦片が

出土品は食べていたもの、使っていたもの

ここまでわかると、出土品の解釈もはっきりする。茶器や釜、祈祷札は、大手口近くにあった豊臣方の武家屋敷から持ち出されたと考えられる。魚や牛馬の骨、箸や茶碗は、埋め戻しに動員された徳川軍が食べていたものや使っていたものも含まれている。これらがまとまって出土した一角は、ゴミ捨て場であったと思われる。行李とムシロの人骨は、埋め戻しの工事中に亡くなった人か、あるいは、工事現場で物売りをしていたおばあさんか…。切られた首は、大坂城からの脱走兵が打ち首にされた…そんな想像も浮かび上がる。

上)首を切られた馬 下)捨てられた牛と馬
上)首を切られた馬 下)捨てられた牛と馬

発掘によって三の丸説が覆される

今回の発掘はもうひとつ大きな発見をもたらした。

 この堀は大手口を逆コの字で囲んでいたものだと考えられ、「僊台武鑑(せんだいぶかん)」に描かれている堀に対応することが判明した。

 実は、2003年発掘以前は、逆コの字は谷町筋まで続くと考えられ、この区画を三の丸だとする説がほぼ定説になっていた。しかし、今回の調査によって、逆コの字は大手口にあり、こんな小さな区画では、従来の三の丸説は成立しないという見解になった。

大坂城三の丸は新しい方向で考え直されることとなった。

「僊台武鑑」の描き方が大きかったことから、赤で塗った、逆コの字は谷町筋まで続くと考えられ、この区画を三の丸とする説が主流であった
「僊台武鑑」の描き方が大きかったことから、赤で塗った、逆コの字は谷町筋まで続くと考えられ、この区画を三の丸とする説が主流であった
発掘調査の結果、赤で塗った区画は大手口に位置すると判明。三の丸の場所について考え直す必要がでてきた
発掘調査の結果、赤で塗った区画は大手口に位置すると判明。三の丸の場所について考え直す必要がでてきた

大坂城発掘の中でも画期的な成果

 史料には出て来ない史実が発掘でわかる。まさに大手口の調査がそれだ。

●徹底防御の堀底に見る、難攻不落の大坂城の仕掛け。

●大坂冬の陣のあと、徳川軍が有無をいわせず行った堀の埋め戻しの実態。

●堀が埋められた時を明らかにした木簡の存在。

●三の丸論争の新たな展開。

「徳川軍が当時食べていたものや、全国から大坂に物が集まる流通網の発展ぶりまで読み取れます」と江浦さん。数々の発見を発掘したことから、2003年の大手口発掘は大坂城発掘調査の中でも画期的と注目を集めている。

 

今年再び発掘調査、熱い期待が

今年度、大阪府文化財センターは大阪府警本部の北側でも発掘調査を行うそうだ。大坂冬の陣400年、この冬、何か大きな発見があってほしいものだ。

2014716

Copyright(C)2014 copyrights.tama-tsukuri.info/All Rights Reserved 

 

中央区大手前3丁目の大阪府警察本部の正面
中央区大手前3丁目の大阪府警察本部の正面
大阪府警察本部南側には説明板が
大阪府警察本部南側には説明板が

大阪府警察本部南側に置かれた説明板アップ
大阪府警察本部南側に置かれた説明板アップ


この夏、出土品が展示された

 2014年7月15日~8月3日、大阪府立中央図書館1階で「大坂の城と陣屋」のタイトルで展示会があり、2003年、大手口で発掘した出土品が並べられた。その展示を紹介しよう。



 堀障子で守られた大手口の城内にはだれが住んでいたのだろう。

 織田信長の弟、織田信包(のぶかね)の可能性が高い。

 左のパネルは、大坂冬の陣直後に刊行された「大坂物語」を引いて、説明している。


堀から出土した陶磁器類
堀から出土した陶磁器類
金箔瓦も出土した
金箔瓦も出土した

堀の近くにあった有力大名の屋敷を飾っていた瓦
堀の近くにあった有力大名の屋敷を飾っていた瓦

玉造の最寄駅

JR環状線「玉造駅」

大阪市天王寺区玉造元町1-40

地下鉄長堀鶴見緑地線「玉造駅」

大阪市天王寺区玉造本町1-2

「真田丸」はここだ! 玉造地図

大阪歴史博物館が推定した真田丸跡をめぐりながらお店めぐりも。

愛用のカメラとICレコーダーです
愛用のカメラとICレコーダーです

玉造イチバンの管理人です。私は玉造で生まれ育ち、今も玉造に住んでいます。たくさんの方に玉造を知ってもらいたく、2013年2月にこのサイトを立ち上げました。玉造を盛り上げる情報を発信していきたいと思っています。