大阪城天守閣特別展「浪人たちの大坂の陣」

本展を企画した宮本裕次さん
本展を企画した宮本裕次さん

大坂の陣400年、その記念の特別展に大阪城天守閣が選んだテーマは、ずばり「浪人」。

大坂の陣では豊臣方の戦力となったのは浪人たちであった。その浪人を主役にしたのが今回の特別展「浪人たちの大坂の陣」である。

浪人という言葉からどんなイメージが浮かんでくるだろうか。

はぐれ者、落ちこぼれ、不穏分子、負け組…など、ろくでもない表現ばかり。

そもそも「浪人」「牢人」の漢字からして感じ悪い。

そうした見方に強烈な一撃を加えたのが本展だ。企画を担当した大阪城天守閣研究副主幹の宮本次(ゆうじ)さんは「浪人というと、仕える先を失った武家社会の脱落者のように思われがちですが、戦国時代には自らの意志で主君を変え、浪人になることを恐れない武士がたくさんいました。大坂の陣で活躍した浪人の中には、合戦後、敵方の徳川側に召し抱えられた者もあったんですよ」と力強く語る。

 えっ、本当に? どうやら浪人を誤解していたようだ。


 合戦で負けて浪人になることもあれば、お家騒動に巻き込まれたり、お家断絶に見舞われたり、ときには主君と意見があわないために自ら浪人の道を選ぶこともある。

たとえば大坂の陣で鮮烈な討ち死にをした後藤又兵衛の場合、主君・黒田長政との確執で浪人を選んだ。黒田家へ戻すため、徳川家から何度も仲介が入ったが、又兵衛は結局戻らなかった(展示060061)。

大坂夏の陣では徳川方の藤堂高虎軍でこんな事件があった。高虎軍の渡辺勘兵衛は、撤退する豊臣方部隊を追い詰めていたとき、主君高虎から中止命令が出た。納得できない勘兵衛は進軍の許可を何度も高虎に求めたが、最後まで許可が下りず、敵をみすみす逃がす破目に。そのうえ、高虎に「お前は今朝、死にそこなったから、そんな生ぬるいことをしているのだ」と言われ、怒り倍増。合戦終結後、勘兵衛は高虎の元を去っている(展示008)。

「主君と家臣は助け合う関係であり、自分の考えを重んじてくれる人に仕えるのが武士の本望。中には主君を次々変える者もいました。これは、自分の力を自分らしく生かしていきたいという、自立心のあらわれでした」

強い自己を持った存在は風を巻き起こす。あちらこちらで吹き上がる旋風が乱世に活力を与えたのである。浪人であっても歴史に名を残す者が現れた。


恐るべし豊臣方の浪人たち

捨て身で武士の意地を見せる

大坂の陣が勃発したとき、徳川勢は「有象無象の食い詰めた浪人の集まり、大したことはない」とたかをくくっていた。

 それがどうだろう。豊臣方に参戦した真田幸村や毛利勝永、後藤又兵衛や明石全登といった、浪人の中でもトップクラスの武士たちが、烏合の衆の浪人兵士を統率して鍛え、精鋭部隊を一気に作り上げたのである(展示030)。

「真田丸を率いた幸村についていえば、優れた指導力があったことは間違いありません。しかしそれだけでは寄せ集めの浪人を納得させることはできなかったでしょう。信濃の有力大名・真田一族であり、稀代の戦略家・真田昌幸の息子であるという、突出した家柄と家としての実績があったからこそ、一目おかれ、組織化に成功したのです」

 豊臣方は冬の陣では真田丸の戦いで完全勝利をおさめた。続く夏の陣で後藤又兵衛は大軍に囲まれながら孤軍奮闘。一方、真田隊は徳川軍のぶあつい先陣部隊をこじあけ、家康をあと一歩のところまで追い詰めた。めざましい活躍ぶりに徳川方は肝をつぶし、捨て身で戦うその姿は敵方のみならず、庶民にまで称賛され、のちに物語や歌舞伎になり語り継がれることになる(展示029)。



勝った徳川方から大量の浪人が

「求む、気骨のある武士、所属不問!」

大坂の陣のあと、徳川幕府は落ち延びた浪人やその子孫を厳しく追及した(展示081084086)。

では、浪人たちは永久に戦犯扱いされ、子子孫孫まで隠れ暮らしたかというと、事実は違った。

豊臣家滅亡の2年後、元和3年(1617)、徳川幕府は秀頼の元直属家臣を放免、彼らの召し抱えを各大名に許可する。さらに元和9年(1623)、開戦に際して馳せ参じた新参浪人に対しても同じく仕官を許可した(展示087089)。

「身分を隠し逃亡したり潜伏している浪人は危険分子とみなされて、残党狩りの対象となりましたが、それに対して、負けを潔く認め神妙に暮らす浪人をいつまでも戦犯扱いするのは社会の安定のためによくない。徳川の体制に取り込んでいくほうがいいと判断したのです」

 

一方、勝ち組の徳川方だが、これまた意外、なんと、大量の浪人が発生している。

「大坂の陣のあと、大坂の処理に一応のめどをつけて、8月には家康は駿府に、秀忠は江戸へ戻りました。関東に帰って、家康・秀忠がまず行ったのは徳川方の処分でした。虚偽の戦功報告や抜け駆け、逃走などを厳しく処罰。浪人となる者が多数出ました」

 

乱世がおさまる最終段階、急速に取り立てられ、たくさんの家臣が必要となる旗本や大名もあれば、改易や処罰をうけ、家臣を手放さざるを得ない者もあった。武士たちの「大量解雇」と「大量採用」が同時に起きた時代でもある。明日のわが身はわからない。

「この世は定めなき浮世。つらいことの多い憂き世。その中にあって、自分自身はいかに過ごすべきか…。浪人に限らずこうした思いを武士たちは常に持っていたに違いありません」

当時の武士たちは「浪人」というだけで決して蔑みの対象としてはいなかったはず。

 

さてさて、浪人たちが再就職活動をするとき、モノをいうのは戦功だ。

「腕力だけを評価するのではありません。死ぬか生きるかの戦場ではその人物の人格がすべて現れます。勇敢であるか、仲間を見捨てないか、潔いか、正直か…。戦のない時代に入り、気骨のある、人徳の高い人材が求められていました。功績が証明されれば、元豊臣方であっても高待遇で召し抱えられることもあったのです」(展示091092

「勝ち組か負け組か」「豊臣方か徳川方か」「浪人か家臣か」なんて関係ない。肝心なのは、武士らしい生き方や戦い方をしているか、これが勝負どころとなってくる。浪人であっても気骨のある者は一目置かれていたということだ。

 

最後に、宮本さんから。「大坂の陣の魅力は浪人の生きざまにあります。勝った負けたよりも、打算でなく、武士らしく生きようとした人たちの活力に注目していただきたい。個人的には、400年経った今、大坂の陣で散った人たちの魂を鎮めたいという鎮魂の思いがあります。今回、図録の表紙を黒色にし、その気持ちを表しました。展示を見て、それぞれ皆さんが何か感じていただければと願っています」


特別展の見どころを聞く
 さて、展示品の中でも特に「これ!」というものを宮本さんに紹介してもらった。

愛知・熱田神宮蔵の刀銘「生過(いきすぎ)タリヤ廿五(にじゅうご)都筑氏(つづきし)(展示001

「個人的に好きで、展覧会のトップバッターに持って来ました。戦乱の時代から太平の時代に移る十七世紀ごろ、「生き過ぎたりや」の一節に自分の年齢をつなげた言い回しが流行しました。尾張徳川家の家臣が熱田神宮に奉納した刀にその一節が刻まれています。おれは武士らしい生き方をしてきたのか。25年漫然と過ごしてきてしまったのではないか、と非常に内省的です。すべての武士たちの心を揺さぶったことばであったと思いますね」

大野治房書状(展示040

「大野治房は、秀頼の側近であった治長の弟。慶長2057日大坂城落城の日に書かれた豊臣軍最後の指令書です。真田・毛利とよくよく相談せよと、2度にわたって二人の名前がでてきます。すでに後藤又兵衛と塙団右衛門は討ち死にしています。幸村・勝永の浪人を最後まで頼りにしていたことが伺えます」

六連銭文黒塗手桶・柄杓(ひしゃく)(展示045046

「真田幸村隊が使っていたと伝わる手桶と柄杓です。夏の陣のときに高木正次が分捕ったとされています。高木家の菩提寺、来迎寺に伝わったものです。これは正次にとって戦場で活躍したことを証明する物的証拠ですね。お寺の外に出し、たくさんの方の目にふれるのはこれが初めてだと思いますよ」

 

「玉造イチバン」管理人の私のおすすめ

武内勇吉さんの肉筆模写「大坂冬の陣図屏風」(展示028

2週間前、図書館でたまたま「大阪春秋」第62号を手にした。武内勇吉さん自らが綴った「『大坂冬の陣図屏風』の模写をやり終えて」を読んで、胸を熱くした。命を削って完成させた屏風は大阪城が誇るお宝だ。(詳しくは大阪市立図書館「大坂冬の陣と大坂城展」

特別展のチラシです。

(画像をクリックすると拡大します)

右がチラシ裏側。

刀銘「生過タリヤ廿五」

左の真ん中の写真

大野治房書状 

書状2通のうち、下の写真



!!宮本さん発見!!

今回の準備のため、お借りした後藤又兵衛に関係する書状を調べ直しました。又兵衛を黒田家に戻そうと、徳川幕府が動いていたのですが、その幕府から送られた書状が慶長19年、大坂の陣が始まる年のものだったとわかりました。幕府は又兵衛を開戦直前まで説得していたことになるんだな…と驚きました」(展示061

 

20141028

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大坂の陣400年記念特別展

「浪人たちの大坂の陣」

大阪城天守閣34階展示室

1011日(土)~1124日(月・祝)

9001700(閉館30分前までに入館を)

大人600

中学生以下と大阪市在住65歳以上(要証明)は無料

Tel06-6941-3044


展示会資料にもあった、後藤又兵衛の長男とその子どものその後について、大阪城天守閣館長の北川央さんが書いている。

朝日新聞2015年1月27日大阪城天守閣館長・北川央さん「大坂の陣の残党たち」.
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玉造の最寄駅

JR環状線「玉造駅」

大阪市天王寺区玉造元町1-40

地下鉄長堀鶴見緑地線「玉造駅」

大阪市天王寺区玉造本町1-2

「真田丸」はここだ! 玉造地図

大阪歴史博物館が推定した真田丸跡をめぐりながらお店めぐりも。

愛用のカメラとICレコーダーです
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玉造イチバンの管理人です。私は玉造で生まれ育ち、今も玉造に住んでいます。たくさんの方に玉造を知ってもらいたく、2013年2月にこのサイトを立ち上げました。玉造を盛り上げる情報を発信していきたいと思っています。