豊臣時代、玉造は大坂城の三の丸

今回お話を伺ったのは

松尾 信裕(まつお のぶひろ)さん

 

大阪歴史博物館・研究主幹。

2007年から7年間大阪城天守閣館長、

2014年4月1日から現職。


 

 

秀吉が大坂城を築城する前の大坂について

 

本題に入る前に、織田信長時代の大坂から話を始めましょう。

もともと大坂は秀吉が統治していたわけではありません。

信長の時代、いま大阪城が建っているあたりに大坂本願寺がありました信長との戦に負けた本願寺は和歌山に移ります。本願寺が出て行ったあとの大坂信長は自分の武将に管理させますが、そうこうするうちに天正十年(1582)本能寺の変が。信長亡き後、織田家重臣らが集まった清須会議池田恒興(つねおき)が大坂を預かることになります。

 

翌十一年四月、賤ヶ岳(しずがだけ)の戦いで、秀吉が柴田勝家を破ると、実質、秀吉が織田家のトップに。池田恒興は秀吉に譲る形で大坂を出ます

 

秀吉は大坂城築城にあたってまず本丸を作り、そのあと二の丸を、同時に城下町づくりに着手したとされています。

 

吉田兼見 よしだかねみ)という京都・吉田神社神主であった人が残した日記には、同年九月一日、「今日からお城づくりが始まる」とあります。その前日、八月三十日の日記には「大坂から天王寺まで町家が建ち並んでいる」と記されています。もしかしたら城下町のほうが先行してできつつあったのかもしれません。

 

大坂城と四天王寺を結ぶライン、これは、上町台地の背骨に当たる部分、つまり大坂で標高が一番高いこの場所に秀吉は城下町を作りました。

 

実は、四天王寺界隈は室町時代からすでに商業・工業が盛んで、町家が七千軒あったといわれるほどにぎわっていました。

 

四天王寺の北側に、秀吉は平野郷から強制的に連れてきた有力町人を住ませるなどしてにぎわいを作り、大坂城下町の形を作りこんでいきます。

 

三の丸に大名屋敷、実は幼い秀頼を守るため

 

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(左図)「豊臣大坂城下町復元図」

豊臣時代の二の丸・三の丸・

惣構と大坂城下町(松尾氏作図)

「大坂城下町」仁木宏・松尾信裕編 

信長の城下町』高志書院2008年

 

 


文禄二年(1593)、秀吉と淀殿とのあいだに秀頼が誕生。翌年には、城のまわりを土塁や堀で囲み「惣構(そうがまえ)」を作りはじめます。

慶長三年(1598)には惣構の中に、大名や武家の屋敷を作るための空間、三の丸の工事が始まります。秀頼が幼いため、謀反を起こす輩があるかもしれないと危惧し、幼子の秀頼を守るため、その屋敷に名の息子や家族を、いわば人質に置いておこうと考えたのです。玉造はこの三の丸の一角に当たります。

武家地の空間「三の丸」を造成するため、従来そこにあった寺や町屋は立ち退きさせられます。どこに移転させられたか。新たな宅地として船場へ移されたという記録が残っています。

その三の丸ですが、どこからどこまでの範囲であったのか、いまだに謎の部分がありますが、私の考えでは、南の境界は長堀通と平行する1本北側の内安堂寺通り。西側は谷町筋。そして東側は玉造稲荷神社あたりと見ています。

 

城郭研究者の桜井成廣氏は著書「豊臣秀吉の居城 大坂城」で、三の丸の玉造界隈には浅野長政・小出吉英・古田重然・前田利家・島津家久・鍋島勝茂・宇喜多秀家・小出(伊勢守)吉親・増田(仁右衛門)長盛・細川(越中守)忠興らの屋敷があったとしています。

しかし、詳しい地図が残っているわけではありませんし、発掘ではっきりしたものが出てきたわけでもありません。地元の旧町名、仁右衛門町とか伊勢町、越中町といった、玉造に残っていた町名から推測したものだと思われます。

確かなことは今もわかっていませんが、玉造に大名屋敷があったこと自体は間違いありません。ただ、前述したように、大名本人がその屋敷に住んでいたわけではありません。

では、大名本人はいったいどこにいたのでしょうか。この当時、伏見城が政治の中心地であり、秀吉の仕事場でもありました。豊臣政権の有力武将らは、伏見城のまわりに屋敷を持って駐在し、秀吉を補佐していたと思われます。

秀吉がいた伏見城が政権の城であるなら大坂城は秀頼のおうち豊臣ファミリーの城。息子秀頼に会うため、秀吉は伏見と大坂を行ったり来たりしています。

 

秀吉の死後、三の丸はゴーストタウンに


慶長三年(1589)八月、秀吉が死去します。

二年後の慶長五年、関ヶ原の戦いが起こり、徳川家康を中心とした東軍が勝利すると、西軍に属していた有力武将や大名は滅びていきます。大坂城三の丸に屋敷を持っていた大名らは、豊臣家に加担していると思われるのを恐れ、屋敷を引き払い、徳川家の膝元、江戸へ向かったり、あるいは国元へ帰ります。その結果、三の丸はゴーストタウンと化します

 

やがて、豊臣と徳川の関係が切迫し、方広寺鐘銘事件から大坂の陣へと突き進んでいきます。慶長十九年(1614)、豊臣家が、数にして十万人ともいわれる牢人衆らをかき集め、徳川との戦に備えます。空き地が広がる三の丸が牢人らの居住地に使われたと考えられます。 

大坂冬の陣では惣構の中で豊臣軍が陣を張り、惣構の外側に作られた真田幸村の出城「真田丸」が守りをさらに固めました。

冬の陣の結果、豊臣と徳川は講和を結び、本丸以外の堀はすべて埋められます。翌5月、大坂夏の陣が勃発し、大坂城は徳川軍に攻め込まれ、玉造も激しい戦場となったことでしょう。こうして豊臣家はついに滅びてしまったのです。

 

「大坂夏の陣屏風絵」には、たくさんの町人が命からがら戦火の中を逃げている様子を描いています。こういう非常事態であったにもかかわらず、たくさんの町人が大坂にいたのです。「あわよくば豊臣が勝つかも」と期待が残っていたのかもしれません。

 

現在、大阪城では金蔵横に埋まっている豊臣大坂城の石垣公開事業が進められています。元大阪市立博物館の前に、この事業の内容を説明する大きな解説板が設置されています。上の画像(クリックすると拡大します)は大坂夏の陣の様子を描いた「夏の陣図屏風」(大阪城天守閣蔵)の一部です。合戦の様子が克明に描かれており、一見の価値があります。


 

戦火で廃墟になった大坂の町はすぐに復興へと動く 

 

 夏の陣で大坂はすべて焼かれ、廃墟となりますが、戦いが終わるとすぐに、町人らがどんどん戻ってきて、大坂城下町は復興していきます

秀吉が造った大坂城下町は商人たちにとって住みやすい町だったのでしょう。

 

豊臣時代の大坂を語る場合、侍が住んでいた武家地は、秀吉死後は廃れたようです。玉造も然りです。一方、町人地はにぎわい、活性化していきます。大坂城の西、船場が城下町の中心となり、徳川時代にはさらににぎわいます。

 

玉造はどうかいいますと、豊臣時代に城内に含まれてい内安堂寺以北は大坂三郷に属していましたが、それより南は「玉造村」となりました。(参考記事 玉造100「大澤研一さん」玉造に今も残る古道がある

 

 江戸時代後半になると、玉造一帯は物見遊山の観光地として人気スポットとなったようです。「摂津名所図会」を見ると、玉造稲荷神社や三光神社へ、町人らがハイキング気分でやって来た様子がうかがえます。

 

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江戸時代の大坂三郷

(大坂市街地)

「まちに住まう―大阪都市住宅史」

大阪都市協会編

平凡社1989年初版

特別付録➊から

ピンクは三郷町地、黄色は武家地、水色は川・堀・池


玉造の部分を拡大 クリックでさらに拡大します
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内安堂寺通りを境に、北側(ピンク)は大坂三郷に属し大坂市街地。一方、南側(白い部分)は「玉造村」で市外となる。


  

 2014年の今年は「大坂の陣」から400年。焼けてゼロとなった大坂見事に再生して400。大坂の歴史を振り返る絶好の機会であり、400年イベントをきっかけに、大阪がにぎやかになってほしいと願っています。


20131211日取材

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玉造の最寄駅

JR環状線「玉造駅」

大阪市天王寺区玉造元町1-40

地下鉄長堀鶴見緑地線「玉造駅」

大阪市天王寺区玉造本町1-2

「真田丸」はここだ! 玉造地図

大阪歴史博物館が推定した真田丸跡をめぐりながらお店めぐりも。

愛用のカメラとICレコーダーです
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玉造イチバンの管理人です。私は玉造で生まれ育ち、今も玉造に住んでいます。たくさんの方に玉造を知ってもらいたく、2013年2月にこのサイトを立ち上げました。玉造を盛り上げる情報を発信していきたいと思っています。