明智憲三郎さんと歩く玉造モデルコース

最新情報 明智憲三郎さんが2015年7月新刊を出されました。「織田信長四百三十三年目の真実」(幻冬社)

 明智憲三郎さんは、明智残党狩りの手を逃れた明智光秀の子・於寉丸(おづるまる)の子孫。大手電機メーカーで情報システムのエンジニアとして長年、腕をふるった。その手腕と経験を歴史に持ち込み、理工学的な手法で“本能寺の変”を捜査した。当時の史料を徹底的に集め、ジグソーパズルを組み立てるように、関係づけ・つなぎ合わせた結果、驚くべき陰謀と密約が透けて見えた。その著書「本能寺の変431年目の真実」は、闇に葬り去られた真実を浮かび上がらせた、渾身の一作だ。201312月発行から快進撃を続け、27万部を突破した。

明智憲三郎さん
明智憲三郎さん

明智さんは新作の準備を進める一方で、講演会やサイン会を精力的に行っている。

 10月13日祝日のこの日、明智憲三郎さんの講演会「秀吉と光秀の天下分け目の山崎合戦」が枚方市市民会館で行われる予定であった。千名を超える人たちを前に、あっと驚く新説が披露されるはずであった。しかし、前日、大型台風が九州に上陸、13日当日は雨と風がきつくなり、警報が出たため、講演会は急きょ中止となった。

 

 一夜明けた14日、台風一過でお天気は回復。当初の約束どおり、JR玉造駅で明智さんと落ち合った。

実は、明智さんはある「もの」を見るために玉造にやって来たのである。しかし、せっかくだから、玉造の名所史跡も見ていただこう。ということで、玉造モデルコースを歩いていただくことにした。

 

本日の玉造めぐりのテーマは3

ひとつは細川ガラシャ。明智光秀の娘であり、玉造で悲劇の最期を遂げた歴史のヒロイン。そのゆかりの場所でガラシャを偲ぶ。

また、豊臣時代、玉造には大坂城の南側を防御する惣構(そうがまえ)堀が築かれた。堀の内側、三の丸には豊臣方の大名屋敷が並んでいた。そして、大坂冬の陣では、惣構堀の外側に真田幸村が出城・真田丸を築き、徳川の大軍を迎え討ち、見事に勝利。玉造は幸村ゆかりの地でもある。豊臣時代の歴史をたどりながら町を歩いて行こう。

そして3つ目。本日のハイライト、森の宮遺跡展示室の「謎の銅鏡」。その謎に明智さんが挑む。

 

左)ガラシャ祈念ミサ当日のガラシャ像 中)三光神社の真田幸村像 右)森の宮遺跡展示室の「謎の銅鏡」


案内を務めるのは、東野雅樹さんと、「玉造イチバン」管理人である私。東野さんは、“中央区まちのすぐれもん”に選ばれている、玉造の歴史案内人だ。

では出発!

 

1)JR玉造駅改札前 900

「今日はどういうルートですか?」

右・明智さん 左・東野さん
右・明智さん 左・東野さん

明智さんのご質問を受けて、駅の地図を見ながら簡単に説明をする。

JR玉造駅→惣構堀跡→三光神社(幸村像と真田の抜け穴)→陸軍墓地→心眼寺→鎌八幡円珠庵→(歴史の散歩道)→聖マリア大聖堂→越中井→(豊臣時代の大名屋敷)→玉造稲荷神社(豊臣秀頼像)→森の宮遺跡展示室→鵲森宮(森之宮神社)→(玉造に戻って)昼食。

4キロ、2時間コースです。途中、坂の上り下りがありますので、ゆっくり行きましょう」と東野さん。

2)長堀通沿いに歩き玉造交差点へ 905

「大阪城はどっちですか?」


高いビルが建ち並び、駅周辺からは大阪城は見えない。

「玉造から見ると、北側の方角に大阪城はあります400年前にタイムスリップしてみましょう。交差点あたりに立派な玉造門が立っていました。黒塗りの門であったため別名『黒門』とも。これが城内に入る、南端の入口でした」

3) 空堀通を歩いて三光神社へと 910

「大坂冬の陣と夏の陣でこのあたりは焼けたのでしょうか?」

 


大坂の陣で玉造は合戦場となった。冬の陣では被害はなかったが、夏の陣で焼野原となった

三光神社へは空堀町(からほりちょう)を通って行く。

大坂城を守るための惣構堀がここから西へずっと続き、上町台地を越えて東横堀川まで通じていました。堀に水が入っていない空(から)の堀であったため、空堀。それが町名になって残ったといわれています」

 今歩いている道は「空堀通(からほりどおり)」と呼ばれ、かつては道の両側にいろいろなお店が並んでいた。それが、すっかり寂れてしまい、今やこの道の名前を知る人も少なくなった。

4)三光神社本殿 915

「“さんこう”の名前はどこからきているのでしょう?」

真ん中は三光神社の宮司、小田禮五郎さん
真ん中は三光神社の宮司、小田禮五郎さん

創建は有史前と伝えられており、祭神は仁徳天皇・天照大神(あまてらすおおみかみ)・素戔嗚尊(すさのおのみこと)・月読尊(つくよみのみこと)。小高い姫山にあったので姫山神社、大坂の陣以降は宰相山神社、また真田山稲荷とか嬪山(ひめやま)稲荷社とも呼ばれていた。

明治時代に宮城県仙台から、中風除けの三光宮の分霊を勧請して以来、参拝者が増え、それで三光神社と呼ばれるようになりました創建には、300歳まで生きたといわれている武内宿禰(たけのうちすくね)が携わり、その子孫の武川氏が代々宮司を務めていました。そういう由来があるので、長寿の神様である七福神の寿老人を祀っています」

現在の宮司は小田禮五郎(れいごろう)さん。おじい様が武川氏から引き継がれ、以来、三光神社を守っている。

5) 三光神社の幸村像と抜け穴 920

「これはどこまで続いているのですか?」


陣中指揮姿の幸村像、そのすぐ横にあるのが“真田の抜け穴”だ。幸村がつくった出城・真田丸と大坂城をつなぐ秘密の地下道といわれている。

「かつて“真田の抜け穴”はこの近辺に10カ所近くあったといわれていますが、今はここしか残っていません。実は、この抜け穴は入ってすぐ左に折れて、行き止まりなんです。大坂冬の陣で徳川方が真田丸を攻撃するために掘ったものとする説もあり、本当のところはわかっていません」

(関連記事「真田の抜け穴」を開放する「真田まつり」当日の様子は2013年イベント11月3日の項目をご覧ください

6) 旧真田山陸軍墓地 930

「大阪では有名な場所ですか?」


古色蒼然とした、同じ形の墓石がずらっと並ぶ光景に、明智さんはたじろいだような表情を見せた。

明治4年(1871)当時の兵部省が大阪に陸軍を創設したときに、この地が日本最初の兵隊埋葬墓地となった。

「お墓の数は約5300。西南戦争や日清・日露、第一次大戦などで亡くなった兵が埋葬されています。戦死者だけでなく、訓練中に亡くなった新兵や、兵役中の病死・事故死者、それに日本軍の捕虜となった清国兵とドイツ兵の墓碑もあります」

 近辺に住む者さえ、足を踏み入れることはほとんどない。旧真田山陸軍墓地の存在は記憶から消えかかっている。しかし、鉄門を一歩くぐると、重厚で張りつめた空気が支配する。明治・大正・昭和と日本は戦争に明け暮れていた。その事実を突きつけられる空間である。

7) 心眼寺(しんがんじ) 940

「“まんなおし”の“まん”は“間(ま)”なんですね」


心眼寺の門扉には真田家家紋の「六文銭」、そして門扉の前に「真田丸跡地」の碑が建つ。寺の前の坂は心眼寺坂。坂に沿って明星高校のグランドと校舎がある。この一帯が、真田幸村が築いた出城“真田丸”の中心地だといわれている。元和8年(1622)、白牟(はくむ)上人が真田幸村・大助父子の冥福を祈って、ここに心眼寺を創建した。当時の大坂は幕府直轄地であったため、真田父子の墓を建立することは許さなかったという。

「中に入って“まんなおし地蔵”にお参りして行きましょう。講演会が台風でキャンセルになったのを“まんなおし”してください。大阪弁では運が悪いことを「まんがわるい」と言います。不運を直して幸運に導くお地蔵さんです

「京都・近江屋で坂本龍馬を襲撃した見廻組の桂早之助と渡邊吉太郎のお墓もあるのでお参りしていきましょう」

(関連記事 「真田丸はどこにあったか?」地元を調査して歩く「真田丸最新研究」壱 

8) 鎌八幡円珠庵(かまはちまんえんじゅあん) 1005

「木に鎌ですか…」


心眼寺坂を上りきったら、西に向かって歩いて行く。この台地のてっぺんに、大きなエノキの霊木が立っていた。真田幸村がご神木に鎌を打ち、真田丸での戦勝を祈願したという言い伝えが残っている。現在は「悪縁を断つ」寺として有名だ。

木に鎌を打つのは神事のひとつなんです。境内にあるエノキは戦災の被害にあって、焼けただれました。根っこは昔のままですが、上の幹は戦後育ちの2代目になります」

(関連記事「鎌八幡で語り継がれる大坂冬の陣

9) 聖マリア大聖堂 1020

「ガラシャは父の句を意識して、辞世の句を詠んだに違いありません」

「ガラシャとはグラシャス、神の恵みという意味ですね」


鎌八幡から坂を下って、長堀通まで出て来ると、今度は上り坂。

心眼寺→(上り)→鎌八幡→(下り)→長堀通→(上り)→聖マリア大聖堂、といった具合。

駅を出てからずっと天王寺区を歩いて来た。長堀通を越えて、今度は中央区に入る。豊臣時代、大坂城三の丸であったエリアだ。

聖マリア大聖堂はあいにく耐震工事のため、テントで覆われているが、ガラシャ像は見学できた。

「工事中で残念でしたが、教会に入ると、真正面に聖母マリア、左に高山右近、右に細川ガラシャの壁画があります。3枚ともに日本画家・堂本印象画伯が手がけたものです。また、窓を飾る数々のステンドガラス、それに2400本のパイプオルガンなど、歴史も見どころも関西有数の教会です」

 ガラシャ辞世の句は「散りぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ」。一方、父光秀は「本能寺の変」の3日前に行われた連歌会で「時は今あめが下なる五月かな」と詠んでいる。

「散りぬべき時」「時は今」…明智さんはガラシャは、父の句を念頭に置き、人生最後の句に“時”を織り込んだのでしょう」と言う。

(関連記事「細川ガラシャ祈念ミサ」当日のミサの様子(2013年イベント8月25日の項目をご覧ください)

 10 越中井 1030

「(越中井)えっちゅうい…。えっ?読み方が違いましたか」