千田嘉博さんインタビュー「真田丸」最新研究(壱)

奈良大学学長室には「大坂の陣400年」のフラッグが飾られている
奈良大学学長室には「大坂の陣400年」のフラッグが飾られている

最新情報 

●「真田丸」の場所は大阪明星学園でほぼ間違いないということで、同学園に「真田丸顕彰碑」2016年2月設置されます。詳しい記事はこちら

●2015年11月3日、真田丸の跡地といわれている大阪明星学園で「真田丸プレミアムトーク」が開催され、千田先生が講演されました。

●2015年10月12日発行の別冊宝島「真田幸村と真田丸」に千田先生が「真田丸の強さの鍵」のタイトルで解説されています。玉造イチバンも写真提供しましたので最終ページに名前が掲載されました。

●千田先生が第28回浜田青陵賞を受賞されました。(2015年7月)

「天王寺 真田幸村博」の目玉企画、「真田丸」の復元ジオラマがついに完成(天王寺区広報紙2015年4月号)。その監修を千田先生が担当されました。先生のインタビューに昨年伺ったとき、幸村博が発行していた真田丸再現イメージ図をお見せして「先生に監修をお願いできればいいのに…」とお話していたのが実現しました!

朝日新聞2015年3月30日朝刊に「真田幸村」の記事が掲載され、千田先生の説が紹介されました。

産経ニュースウエスト2015年1月4日【関西の議論】「『真田丸』は孤立無援の砦だった」の見出しで千田先生の説が紹介されました。

玉造イチバン」のこの記事を元に日本経済新聞2014年10月3日夕刊に千田先生の新説が紹介されました。

2015年10月12日発行の別冊宝島。千田先生が真田丸の解説をされています。写真提供の欄に玉造イチバンの名前も掲載されています。

日本経済新聞2014年10月3日夕刊.pdf
PDFファイル 1.3 MB
2015年3月30日朝日新聞朝刊「真田幸村」.pdf
PDFファイル 4.1 MB
真田幸村博 真田丸ジオラマ 監修は千田先生が.pdf
PDFファイル 2.0 MB

  玉造地区の真田山には、真田丸の痕跡がなにひとつ残されていない。また、史料に表れる真田丸もそれぞれ異なるため、謎が多い。

  

 2013年7月10日に放映されたNHK歴史秘話ヒストリア「発掘!真田幸村の激闘~最新研究調査から探る大坂の陣~」は大きな反響を呼び起こした。真田丸をCGで詳しく再現、その構造や戦いぶりは初めて聞く事柄ばかりであった。番組に登場し、解説をしたのが千田嘉博(せんだよしひろ)さん。城郭考古学の専門家であり、また、この春からは奈良大学学長を務める。千田さんに新しくわかったことを解説してもらった。

 

「諸国古城之図」をベースに新たに調査

 実は、真田丸についてきちんと研究調査されているものは皆無に等しいんです。

真田丸を描いた史料はいろいろありますが、今回新たに調査するにあたってベースにしたのが「浅野文庫諸国古城之図」。

これは元広島藩主浅野家に代々伝えられたもので、江戸時代初期の時点ですでに廃城になっていた全国のお城を記録した図面集です。この中に真田丸の図面が収録されています。

図面に描かれているお寺や道を、江戸時代の古地図と照らし合わせると、よく一致します。また、堀の跡が当時、田んぼになっているといったように丁寧に記され、現地を実際に歩いて描いたものだと読み取れます。いわば現地調査図面ともいえる信頼性の高い史料です。見過ごされてきたこの図をもとにすれば、真田丸の大きさや位置関係がかなり具体的におさえられることがわかりました。

併せて、古い航空写真や当時の絵図など参考にし、さらに、番組ディレクターの伊藤敏司さんが現地を徹底的に歩き、作り上げたのが、番組で紹介された真田丸のCGです。

画像をクリックすると拡大します
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真田丸は巨大な要塞で、二重構造

 旧地形と照合する中で、新たにわかったことなのですが、惣構(そうがまえ)の東側、今の住所表記で言うと天王寺区空堀町(からほりちょう)あたりは自然の谷、それも非常に大きな谷が入り込んでいて、それをそのまま惣構の堀に利用しています。谷の外側、つまり南側に当たる場所につくられたのが真田丸です。

これまた調べてわかったことですが、真田丸の構造も今まで言われていたのとかなり違っています。

砦の中はふたつにわかれ、本体は大きな丸馬出しの形状、その後ろに、小さな丸い曲輪(くるわ)が配置され、二重構造になっていました。

後ろの曲輪は、惣構と砦を結ぶ道を守る役割を担います。また、万一、徳川軍が惣構の堀に侵入してくるようなことがあれば、背後を取られ、砦自体が危なくなりました。そうした非常事態に備えて、後ろの守りを固める役割も果たしていました。さらに、堀に近づく敵に対し攻撃を加える拠点でもあったのです。

細かく見ると、本体と曲輪のあいだは堀で切ってあります。後方の曲輪に不測の事態が起きても、本体に直接被害が及ばぬようにと、堀が入れられていたのです。

砦の大きさも従来考えていたよりもはるかに大きく、巨大な要塞でした。規模と構造から見て、1個の独立したお城に相当します。

イメージとしては、惣構の外側に、新たにお城を作った、そんな感じです。真田丸はちょっとした出丸のように言われてきましたが、そんな小手先の、ちっぽけで単純なものではなかったのです。


イラスト3点 

中本千秋

(無断転載禁止)

 


 

 

 

 

 

 

 

身振り手振り、ときには立ち上がって「こんなふう」と熱く語ってくださいました


念入りに考えられた、戦国時代最高の出城

 真田丸内部の構造は、「大坂冬の陣図屏風」詳しく描かれています。

 大きな出丸は周囲にぐるりと塀を巡らせ、その塀は上下2段になっており、角度を変えて、下の段と上の段から、鉄砲で反撃できる仕組みでした。しかも、2階部分は行き来が自由なプラットホーム。どこかのコーナーで応援が必要となれば、走って駆け付けられるようになっていました。

塀の要所に差しはさまれた櫓(やぐら)は、上側の格子戸がわずかに出っ張り、下の板とのあいだに小さな隙間が開いてます。これは何だかわかりますか。敵が真下に迫ってきたら、この隙間から石を投げ落とす、つまり“石落とし”の仕掛けです。最後の反撃まで考え尽くされ、実によくできています。

「大坂冬の陣図屏風」真田丸の部分

http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0096336 


 

大坂城の南側が一番弱い。そこを守るために真田丸を造ったといわれていますよね。

しかし、調べていくうちに、真田丸は決して“守り”の砦なんかではない。実際は“攻撃”のための拠点であったということがはっきりしました。

豊臣方の兵が全員、惣構の内側で守っている中、真田丸だけが惣構の外側に出ているということは、徳川軍がここを標的にして狙ってくるのは自明の理。「襲ってきたら、こう戦う」と、敵の動きを想定して造られているのです。

作戦の基本は“おびき寄せ”です。油断したように見せかけて、徳川軍を砦のそばまでぐっと引き寄せます。近づいてきた敵に対し、ここぞとばかりに、上から下から2段構えで鉄砲・弓矢を浴びせかけます。

砦の出入口は東西2カ所、西側の出入り口は惣構の近い場所にわざと作っています。徳川軍が出入口を襲おうとすれば、砦からはもちろんのこと、惣構内の右側からも左側からも射撃され、三方向から袋だたきに合います。真田丸に近づけば、あっちからこっちから打たれ放題といった具合です。

実際、124日の1日だけで、徳川軍からは数えきれないほどの死者が出て、大打撃を被っています。真田軍の圧倒的勝利です。

真田丸は勝つことを前提に、明快なビジョンを持ってつくられた出城でした。少ない人数で、とてつもない数の徳川軍を打ち負かすには、敵兵を砦まで近づかせ、徹底的に叩くしかないわけです。真田丸は、相手が接近してはじめて威力を発揮する砦なのです。

この砦は城づくりの最善の知恵を結集してつくられています。ここまで徹底した前線基地はちょっとないですね。戦国時代最高の出城であったといっても過言ではありません。

“真田丸の戦い”については、徳川軍がうかうかしていたため、偶然に勝利したなどと、幸村の功績を低く評価する声も聞かれます。しかし、偶然どころか、勝つように考え抜いて、つかんだ必然の勝利だったのです。幸村も、真田丸も、もっと高く評価されるべきです。

 

戦いを読み切っていた幸村、「真田丸の戦い」は勝って当然

「大坂夏の陣屏風」の真田幸村
「大坂夏の陣屏風」の真田幸村
三光神社の真田幸村像
三光神社の真田幸村像

 

真田幸村(信繁)がどんな武将であったか、真田丸を調べていくうちに見えてきます。

惣構の外側に出城を造るなんて、普通の武将なら考えません。ひとりだけ飛び出して、敵を挑発し、徳川軍の注意をこちらに向けるわけですから、死地に飛び込むようなものです。

また、こうした作戦はたいがい失敗しています。手柄を立てようと、華々しく本陣の先頭に立った先備えが、敵にすぐに破られ、味方を巻き沿いにして大敗した例は、長久手小牧の戦いや賤ヶ岳の戦いでも見られました。よほどの勝算がないと、出城を作ろうなんて思いません。

では、幸村に勝算はあったのか。あったと思います。大坂城での軍議の場で、「絶対任せてくれ」と言ったのは間違いありません。どこに出城をつくり、どういう構造にするか、幸村の頭の中にはすでにしっかりした構想があったのだと思います。幸村は戦いを読み切っていたのです。

並々ならぬ幸村の知力は、真田丸の場所選びにも発揮されます。普通に考えると、大坂城の南側で、一番弱い場所に出城をつくりますよね。それでいくなら、上町台地の中央につくるでしょう。高さに差がないので攻められやすく、しかも惣構の堀幅も狭いため、ここが守りの中心になるべきところでした。

しかし、幸村はあえてそこにはつくっていません。おもしろいですね。実際には、うしろに深い谷があって、地形的には攻められにくい場所を、わざと選んでいます。真田丸に注目させ、一番の弱点を敵の目からそらさせるためであり、たとえ真田丸が破れるようなことがあったとしても、深い谷が惣構を守ってくれると見越していたのだと考えられるのです。

別の見方をすれば、味方は後方の離れた場所にいて、孤立した前線基地で戦っていたということです。「ここはおれに任せろ」という幸村の覚悟が感じられ、本当にかっこいいですね。

真田丸の場所を決めるにあたって、幸村は現地を歩いているはずです。そして、「ここに築く!」と一瞬のうちに決めたのでしょう。

場所が決まったら、砦づくり。構造はすでに頭の中にできています。とはいえ、わずか1カ月そこそこで、どうやってあれだけの大規模の砦をつくったかが問題です。

私の考えでは、櫓と塀をセットにして1ユニットつくり、同じ長さのパーツを次々つなげて、あっという間につくりあげたと見ています。寄せ集めの武士たちを組織して、短い期間に最高の出城を作ったその手腕。すごいなぁ、カリスマ性を感じますね。

後藤又兵衛も同じアイデアを持っていて、材木まで用意していたといわれていますが、幸村だから、あのような最高の出城をつくれたのです。幸村は九度山で14年近く蟄居していましたが、そのあいだも「次がある」と考えて勉強を怠らなかったと思います。そうでないと、こうもあざやかにはいきません。

 

幸村の戦略戦術の基本は父がお手本

幸村の“おびき寄せ作戦”は、父昌幸さんの戦いを参考にしているのは確かです。

真田家の居城であった上田城は断崖の上に建ち、西には堅固な堀があり、唯一の弱点は東側。二度にわたって徳川の大軍に攻められますが、少ない軍勢で二度とも勝利しています。

世に言う上田合戦と真田丸の戦い、共通点がいくつもあります。幸村は上田城での戦いをお手本にしたと思うのです。

幸村は、合戦の前線指揮官として一流だっただけではなく、築城の名手であり、武士や足軽をひとつにまとめ団結させた人心掌握の天才でもあり、これはもう、戦国時代でも超一流の武将です。もし大軍を指揮して戦ったとしたら、すごい戦いぶりだったでしょうね。

私は真田家ゆかりの上田城と松代城の調査をしてきました。今、両方のお城の調査・整備の委員をしています。上田城も松代城も馬出しをたくさん持っており、ミニ真田丸いっぱいのお城です。今回の調査を通じて、改めて真田丸の戦いへの関心を深めています。そして何より、幸村への再評価が必要だと思っています。

 

今回の再調査は真田丸新研究の第一歩にすぎません。これまでお話ししてきた内容は、真実に近いと考えていますが、なにもかも正しいとは限りません。今までの史料を再点検し、丹念に読み解いていけば、真田丸の真実にもっと近づいていけると信じています。明らかにすべきことはたくさんあります。調査への“参戦”が増えることを願ってやみません。

2014627日取材

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2013710日放映のNHK歴史秘話ヒストリア「発掘!真田幸村の激闘~最新研究調査から探る大坂の陣~」

●番組のおおまかな内容は(番組バックナンバー2013710日を)

http://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/index_2013.html

 ●視聴する場合はNHKオンデマンド

https://www.nhk-ondemand.jp/

千田嘉博さんの著書  

「信長の城」(岩波新書2013年)・「天下人の城―信長から秀吉・家康へ」(風媒社2012年)・「図説100名城の歩き方」(ふくろうの本2010年)・「戦国の城を歩く」(ちくま学芸文庫2009年)・「戦国の城を歩く」(ちくまプリマーブックス2003年)・「織豊系城郭の形成」(東京大学出版会2000年)・「城館調査ハンドブック」(新人物往来社1993年)ほか

約1時間半インタビューに付き合ってくださいました。

NHK歴史秘話ヒストリアの放映後、取材が殺到していると思っていたのですが、実はこれが初めてのインタビューだったとお聞きし、びっくり。

テレビで見ていた通りお優しくて、紳士的。どんな質問にも真摯に答えてくださり、温かな人柄に魅せられました。また、お城の話を始められると、次々話題が広がり聞きほれました。中学1年生のころからお城が好きだったといわれていますが、学長になられた今も、お城好きだった少年の心そのままです。


おめでとうございます!

考古学の芥川賞ともいわれている「浜田青陵賞」を受賞されました!

2015年7月28日朝日新聞朝刊
2015年7月28日朝日新聞朝刊

玉造の最寄駅

JR環状線「玉造駅」

大阪市天王寺区玉造元町1-40

地下鉄長堀鶴見緑地線「玉造駅」

大阪市天王寺区玉造本町1-2

「真田丸」はここだ! 玉造地図

大阪歴史博物館が推定した真田丸跡をめぐりながらお店めぐりも。

愛用のカメラとICレコーダーです
愛用のカメラとICレコーダーです

玉造イチバンの管理人です。私は玉造で生まれ育ち、今も玉造に住んでいます。たくさんの方に玉造を知ってもらいたく、2013年2月にこのサイトを立ち上げました。玉造を盛り上げる情報を発信していきたいと思っています。