千田嘉博さんインタビュー「真田丸」最新研究(弐)

「大坂冬の陣屏風」を開いて説明くださいました
「大坂冬の陣屏風」を開いて説明くださいました

 城郭史の専門家であり、奈良大学学長を務める千田嘉博さんに「真田丸」最新研究(壱)で、真田幸村からの視点で「真田丸」での戦いぶりを語っていただいた。

 では、相手方の徳川軍はどうであったか。(弐)では千田さんに徳川軍の戦いぶりを分析していただいた。

 

徳川軍の戦いぶりは合戦史上、世界最先端であった

 真田丸の戦いを語るとき、「徳川軍が真田軍の挑発にうかうか乗ってしまい失態を演じた」、そんな捉え方をされることがしばしばあります。しかし、これは違います。幸村もすごかったが、徳川軍もすごかったんです。

 

徳川軍と同じような戦いぶりがヨーロッパで見られるのは18世紀。真田丸の百年後です。また、明治初めの五稜郭の戦いや第1次世界大戦の塹壕戦(ざんごうせん)は、大坂の陣での徳川方の攻めを発展させたものです。世界の合戦史上から見ても、徳川軍は当時最先端の戦いをしかけていたのです。

 

ヨーロッパより100年早かった塹壕戦

では、徳川軍がどう攻めたのか。それを如実に伝えているのが、東京国立博物館所蔵の「大坂冬の陣図屏風」。この中に真田丸での戦いが描かれています

徳川軍の最前線は竹束を積み、その背後に築山(つきやま)を築いています。うしろにいる足軽たちの帽子や頭は見えていますが、身体は見えていません。これは、塹壕の中に半身が隠れているからです。

砲弾が雨嵐と飛んでくる前線では、平地を歩いていたら、たちまち狙い打ちされます。砦に近づくために半地下通路をジグザグの(Z)形に作って、じりじりと接近していきます。

最前線と、後方にある安全な陣所、この間を塹壕でつなぐという、まるで近代的な戦いが行われていました。「大坂冬の陣図屏風」を見ると、塹壕を作った徳川軍が、大坂城の一番外側の守りである惣構を整然と、隙間なく取り囲んでいます。人海作戦で、土を掘って掘っての大土木工事で攻めたのです。

こうした塹壕戦は、ヨーロッパでは星型の稜堡(りょうほ)式城郭を攻めるときの戦法として18世紀になって確立しました。真田丸での戦いは1614年、17世紀初めです。100年早く徳川軍がこれだけの攻撃をしていたというのは世界の合戦史上、特筆すべきことです。

「大坂冬の陣図屏風」

(東京国立博物館所蔵)

http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009737

天満口方面の攻防戦を描いた左隻。塹壕を掘った残土で築山をつくっていた。塹壕の後方の安全な陣所では足軽たちがご飯を食べている。

 


鉄壁の惣構で守りきった名城・大坂城

もうひとつ驚かせられるのは、徳川の大軍を相手に、豊臣方は惣構の一角すら破らせることなく、守りきったこと。さすが、秀吉が心血注いで残した天下の名城、鉄壁の防衛ラインです。まさに難攻不落のお城だったということですね。

 

大坂冬の陣についてはたくさん本が書かれていますが、豊臣方と徳川方がどう戦ったかを具体的に調べて書いたものはほとんどありません。

真田丸の戦いは、徳川正規軍vs名将・幸村、高度な塹壕戦vs類のない出城攻撃戦、一流の武将、最高の戦法がぶつかり合った、合戦史上に残る大勝負。真田丸と同様、徳川軍の戦いぶりも見直す必要があるでしょう。

 

2014627日取材

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「真田丸」はここだ! 玉造地図

大阪歴史博物館が推定した真田丸跡をめぐりながらお店めぐりも。

愛用のカメラとICレコーダーです
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玉造イチバンの管理人です。私は玉造で生まれ育ち、今も玉造に住んでいます。たくさんの方に玉造を知ってもらいたく、2013年2月にこのサイトを立ち上げました。玉造を盛り上げる情報を発信していきたいと思っています。