江浦洋さんが考える「真田丸」

 大阪府文化財センター事務局次長の江浦洋(ひろし)さんにお聞きしました。

 

 「真田丸は

どんな砦であったと

思われますか」


 大阪府文化財センターは2003年、大阪府警本部新庁舎建設現場を発掘調査した。豊臣大坂城の大手口に当たるこの場所から、大坂冬の陣で埋め戻された堀を発掘した。堀底は障子の桟のように区切られているため堀障子(ほりしょうじ)と呼ばれ、底は意図的に凹凸に堀りくぼめられデコボコ状。敵の進軍を足止めする、戦国時代の徹底防御の堀である。 この発掘で班長を務めた江浦洋(えうらひろし)さんは、調査結果から推測すると、真田丸の外堀もまた堀障子の可能性があると考えている。

(江浦さん記事「大坂の陣」で徳川方が埋めた堀を発掘する

 

真田丸の外堀は堀障子…

大坂城大手口の堀は慶長3年~4年、秀吉が亡くなる前後につくられたと考えられています。真田丸がつくられたのは慶長19年。(真田)幸村は大坂城大手口の堀が堀障子だと知っていたでしょうから、真田丸の外堀にもその手法を取り入れた可能性があります。堀底が平らであれば、敵は難なく渡れますが、堀障子だとそうはいきません。

堀に入った敵兵は足をとられ、倒れこんだり、ふらふらしたり…、すかさず真田丸から鉄砲が打ち込まれ、またたく間に仕留められるというわけです。前田軍は堀の前で足止めをくらったでしょう。

 

外堀が発掘できれば、激しい銃撃戦が証明できるはず

北条氏の山中城の堀を発掘したときには、堀の中からも鉄砲玉が見つかっています。発掘すれば、真田丸はそれを上回る鉄砲玉が出てくるのは間違いありません。1614124日、真田丸と徳川軍とのあいだですさまじい銃撃戦があり、堀には累々と死体が積み重なっていたといわれています。

堀から徳川軍の死体が出てくるか? 徳川方が見捨てたままにはしないでしょう。戦いが終わったあと、味方の死骸を回収しているはずですから、堀から死体は出てこないと思いますね。

 

2003年に発掘した大坂城大手口の堀もそうですが、真田丸も、冬の陣のあと、驚異的スピードで埋め戻されています。人為的に一気に埋めると、真空パックされたように、そのときの状況がそっくりそのまま残ります。真田丸の堀を発掘できれば、真田丸での戦いぶりや、堀を埋めたときの様子が生々しく浮かび上がってくるはずです。

 

大坂城南惣構、堀は堀障子の可能性あり

ところで、南側の惣構ですが、惣構の築造開始が文禄3年からだとすると、この堀も小田原攻めの後となり、ここもまた堀障子であった可能性があります。

というのも、惣構の三方、北と東と西側は川を利用したもので、南側だけが人工の堀です。大坂城の南側が一番の弱点。敵の進軍を防ぐには、南惣構の堀は守りが強固でなければなりません。とすれば、堀障子…の可能性が考えられます。

 

上町筋の「ひかりのくに」は南惣構の一角にある会社。新社屋建設時に、工事現場から惣構の堀跡が見つかりましたが、堀底までは確かめられていません。残念ながら、南惣構がどんな堀であったか、詳しいことはわかっていません。真田丸も惣構も将来発掘できれば、あっと驚く発見が出てくるでしょう。

ひかりのくにビル前には発掘調査報告が
ひかりのくにビル前には発掘調査報告が

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「真田丸」はここだ! 玉造地図

大阪歴史博物館が推定した真田丸跡をめぐりながらお店めぐりも。

愛用のカメラとICレコーダーです
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玉造イチバンの管理人です。私は玉造で生まれ育ち、今も玉造に住んでいます。たくさんの方に玉造を知ってもらいたく、2013年2月にこのサイトを立ち上げました。玉造を盛り上げる情報を発信していきたいと思っています。