「浅野文庫諸国古城之図」、伏見城調査で正確度が判明

今回の「真田丸」新調査は「浅野文庫諸国古城之図」をベースにしていますが、問題は「諸国古城之図」の精度。果たしてどの程度信頼できるかです。 朝日新聞7月28日夕刊の記事に、伏見城遺構の調査が進み、その結果、「諸国古城之図」の伏見城がほぼ正確であると判明した、とあります。

 

朝日新聞夕刊7月28日
朝日新聞夕刊7月28日

 朝日新聞の記事によれば、秀吉が建てた伏見城の遺構を大阪歴史学会が調査しています。

伏見城は関ヶ原の戦い(1600年)の前哨戦で焼け落ち、徳川家康が再建しましたが、1623年には廃城となっています。城跡には明治天皇と皇后の陵がつくられ、立ち入り禁止となっていたため、伏見城遺構の調査はできませんでした。

 専門家の要請で2009年に学会の立ち入り調査が認められ、航空レーザーによる測量で詳しい構造が明らかになりました。

 「浅野家諸国古城之図」の中に伏見城の図が掲載されていますが、今回の調査によって、ある程度正確であることが判明しました。違った点は天守閣の位置。「諸国古城之図」では本丸北西角に描かれていたのに対し、測量図では本丸内側に天守台が確認されたとあります。

 本丸の隅に天守台を置く「豊臣流」に対し、「徳川流」は本丸中央に天守閣を置くスタイル。家康は再建した際、城郭全体の構造は秀吉時代を踏襲しながら、天守閣だけは徳川流を取り入れたと記事は締めくくっています。

 

 この新聞記事では、「諸国古城之図」は天守閣の位置は間違っていたが、あとはだいたい正確と書いています。

 しかし、記事を読んでいてわからなかったのが、なぜ「諸国古城之図」は天守閣の位置を北西角に描いたのか。判断ミスなのか、他に理由があったのか。

 焼失前の秀吉時代に、天守閣は北西角にあったのではないか。家康時代になって本丸の中に移したとは考えられないのか。そのあたりが読みとれないため、「ほぼ正確」の表現が引っかかります。

 

「諸国古城之図」は専門家が現地を歩いてつくった図面

「諸国古城之図」がつくられた江戸時代初めに、軍学が大成されました。軍学とは江戸時代に流行した机上の戦争理論のこと。

広島の浅野家では藩主の命令で、全国の城や城跡を調査し、それを編集したお城の図面集「浅野文庫諸国古城之図」を完成させています。その当時現存していた城154カ所と、すでに廃城になっていた177カ所を記録。

千田先生は「丁寧で良質な史料です。城に詳しい人が現地を歩いて描いたものに間違いないと思います」と評価します。

「諸国古城之図」は昔から専門家にはよく知られていたものの、「真田丸」研究にはこれまで使われたことがなかったそうです。今回この史料にスポットを当てたことによって、新たな解釈が出てきました。

 

 「冬の陣図屏風や夏の陣図屏風なども、もっと深く研究すれば、新しいことがわかってくるだろうと思います。今までの史料を見直すことも必要です」とも千田先生は言われています。

 

今年と来年は「大坂の陣400年」、再来年には大河ドラマ「真田丸」が決定。これを機に、幸村の砦「真田丸」の解明が進むよう、世論を盛り上げていきたいと考えています。

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大阪歴史博物館が推定した真田丸跡をめぐりながらお店めぐりも。

愛用のカメラとICレコーダーです
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玉造イチバンの管理人です。私は玉造で生まれ育ち、今も玉造に住んでいます。たくさんの方に玉造を知ってもらいたく、2013年2月にこのサイトを立ち上げました。玉造を盛り上げる情報を発信していきたいと思っています。