第28回濱田青陵賞授賞式・記念シンポジウム

2015年7月28日朝日新聞朝刊
2015年7月28日朝日新聞朝刊

岸和田市立文化会館ホール(マドカホール)で授賞式

 9月22日13時から岸和田のマドカホールで第28回濱田青陵賞の授賞式が行われ、受賞された千田嘉博先生の記念講演と記念シンポジウムが開かれました。

 濱田青陵賞は、岸和田市にゆかりが深かった、考古学の先駆者・濱田耕作(号 青陵)博士の没後50年に当たる1988年、朝日新聞と岸和田市で創設。考古学とその周辺諸科学の分野で活躍中の研究者に贈られる文化賞で、考古学の芥川賞ともいわれています。

 第28回の今年、奈良大学学長の千田嘉博先生が受賞されました。「城郭の考古学的研究を新たに開拓し、その確立と発展に寄与した」功績によります。城郭研究が選ばれたのは28回目にして今回が初めてです。



千田先生と奥様
千田先生と奥様

岸和田市長の信貴芳則さんが表彰状と記念盾を授与。信貴市長はその挨拶で、自身が子供時代に真田山小学校で3年間在籍していたことや、学校が真田丸と関係している場所とは当時の自分たちは何も知らなかったこと、さらに最近、母校の周りを歩いて真田丸を偲んだと話されました。


朝日新聞を代表して編集局長の池内清さんから副賞が贈られました。池内さんは「濱田青陵賞は、今後の活躍が期待できる新進気鋭の研究者に贈られる賞。学長という重職を務め、すでに大きな実績をあげていらっしゃる方に差し上げるのは失礼に当たるのではないかと悩ましかった」と語りました。


記念講演会「近世城郭成立の考古学的研究」

授賞式のあと、千田先生が記念講演をなさいました。


記念講演のあらましの内容

 400年~500年前、中世や江戸時代の城跡には、草木に埋もれた土塁や石垣、堀跡が残っていて、専門家でなくても現地に行けば自分の目で体感できます。城郭は市民に広く開かれた歴史テーマです。そして、城跡から歴史を研究できるのです。軍事性を含めて城を総合的に理解し、地域の中でどう発展していったのか、さらに保護と整備までつなぐ考古学の役割が重要です。

 また、ご自身の海外研究も踏まえて、「大きな視点を持って、世界史の中で比較すれば、国や言語を超えた研究も可能です」と語られました。

 

 町時代に平地に作られていた城が、戦国時代になると山上に築かれるようになります。どんどん城の姿が変わっていく。

●滋賀県にある六角氏の観音寺城は本丸がどこにあるのかわからない構造。

●鹿児島県知覧城は、プリンを伏せたようなものが合体され、曲輪が並列な配置。

大名と家臣の住いが横並びの関係、このことから大名と家臣たちの力関係が拮抗していて、大名が絶対的な権力を持ち得ていなかったといえる。

 

大きく変わるのは、織田信長から。武士だけが城を築け、城を城下の中心に据え、大名を頂点とした階層構造をつくり出した。信長の手法は秀吉、家康と引き継がれ、こうした一連の階層的な城郭構造の城を「織豊系(しょくほうけい)城郭」と呼ぶ。信長と信長の城は近世城郭の成立に大きな役割を果たしただけでなく、近世社会の成立そのものにも深く関わった。

織田信長が初めてイチから作った小牧城永禄6年、1563年)では、最も高いところに信長自身が住み、家臣たちはその下に配置する階層的な城づくりを行った。山頂部は総石垣で、防御性を高めるため城道はジグザグにしてある。

●信長が次に作った岐阜城(永禄10年、1567)は、一番高い山頂が信長と家族が住むプライベートな空間、山麓に公的な場所をしつらえた。山城が軍事拠点であると同時に大名の生活空間でもあった。また家臣らを山麓の屋敷に住まわせ、信長自身を超越者として仰ぎ見させた。

●天正4年から築城した安土城は山頂に天主と本丸を築き、信長は天主を住まいにした。その頂上から序列の順に家臣の屋敷が並ぶ、求心的階層的な城郭構造。これが近世城郭の指針となり、日本各地の近世城郭に大きな影響を及ぼした。

 

 一方、世界の城に目を向けると、法則性に則って発達しており、日本の城にも当てはまるケースが見られるとし、紀元前のヨーロッパの城と日本の城との出口(外桝形)を比較するなど、新しい視点で話を展開。世界と比較することで、日本の城の特色を一層明らかにし、人類にとって城とはなんであるかを究明したいと締めくくられました。

記念シンポジウム「信長の城、秀吉の城」

パネリストの基調報告


大阪城天守閣館長 北川央(ひろし)さん

●秀吉の大坂城は、大坂石山本願寺がここにあったときの構えを利用したものである。

●慶長19年(1615)、大坂夏の陣で豊臣家が滅びると、豊臣大坂城は完全に土の下に埋められ、徳川秀忠によって新たに大坂城が再建された。

●徳川時代が続くうち、そうした事実が忘れ去られ、大坂城はさまざまな豊臣伝説をまとうことになる。昭和34年に大坂城総合学術調査が行われてはじめて、豊臣時代のものだと信じられていた石垣は実はそうでないことが判明した。

●最後に大坂城三の丸論争について。豊臣大坂城は本丸・二の丸・三の丸の三重構造だと言われてきた。ところが、三の丸と考えられてきたのは「惣構」であり、本当は四重構造ではなかったのか。では、三の丸はどこに当たるのか。ということで、3つの説が論争中で、決着がついていない。割り込む形で北川氏は新たな自説を提示。短い時間で詳しくは聞けなかったが、熱弁に引きつけられた。

 

佐賀大学教授 宮武正登(まさと)さん

●秀吉が築城した城を現在ほとんど見ることができない中、朝鮮出兵のために築城した佐賀県にある肥後名護屋城はほぼ完全に残っている。豊臣氏の城郭技術や具体的な内容を研究できる絶好の存在である。

●石垣に巨石や、石をタテに積み上げる立石を使うなど、バランス度外視、技術度外視の技法をわざと用いるところに、秀吉の「権力自己主張」が読み取れる。

●守りのための堀に出島を作って舟を浮かべて遊んだり、城内に山里や茶室を設けるなど、軍事・防備を度外視して遊興を持ち込む。

●城本来の防衛機能を低下させても、景観や文化的空間にこだわった秀吉の築城術は名護屋城に集まった全国の諸大名に影響を与えた。

非常に興味深い話が次々と展開し、魅せられた。

 

加賀市教育委員会主幹 戸根比呂子さん

●城郭の出入り口、虎口(こぐち)の変化が織豊系城郭変遷の指標となるという千田先生の説を前提に、石川県加賀市にある大聖寺城の調査を通じての考察を報告する。

●本丸・二の丸・鐘が丸の虎口の形態はいずれも織豊系城郭の特徴を有しているが、それぞれの虎口から見て、二の丸・鐘が丸・本丸の順に新しい形態への変化が見られる。城の中でも最も重要な本丸には順次、新しい形態が積極的に取り入れられていったのであろう。

かなり専門的な話でした。

 

玉造の最寄駅

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「真田丸」はここだ! 玉造地図

大阪歴史博物館が推定した真田丸跡をめぐりながらお店めぐりも。

愛用のカメラとICレコーダーです
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玉造イチバンの管理人です。私は玉造で生まれ育ち、今も玉造に住んでいます。たくさんの方に玉造を知ってもらいたく、2013年2月にこのサイトを立ち上げました。玉造を盛り上げる情報を発信していきたいと思っています。