真田家14代目、真田徹さんトークショー

 5月4日天王寺真田幸村博プレイベントが開かれた。盛りだくさんの催しが用意されていたが、歴史ファンのお目当ては、なんといっても、真田家14代目、真田徹さんのトークショー。

 舞台に現れた徹さんは気さくに手を振り、話しぶりもフランク。当時の事件や合戦を検証や類推をもとに紐解いた。思いがけない話も飛び出し、あっという間の60分であった。進行役は、学芸員の資格をもつ歴史アイドル、小栗さくらさん。

2016年大河ドラマ「真田丸」に決定、

徹さんの喜びの声


初めまして、真田徹です。仙台に逃れた真田幸村の次男、大八の子孫に当たり、幸村から数えて14代目となります。

 

幸村の出身は信州・上田。長野県の真ん中から少し南に位置する「真田の里」です。真田一族はもともとここに土着していた豪族ではなかったかといわれています。

もっと昔に遡れば、清和源氏の嫡流で、信濃の名族、滋野系海野(うんの)の一族であったようです。

でも実際のところ、真田家初代とされるのは真田幸隆でしょう。幸村の祖父に当たり、武田信玄に仕えた人です。真田家2代目の昌幸は幸村の父に当たる人で、二度にわたって徳川の大軍を破った戦の名人だった人です。

 

今日の主役、真田幸村ですが、「本当の名前は繁信ですよね」と聞かれることがよくあります。でも、戦国時代の一次史料は少なく、特に幸村関係の一次史料はほとんど残っていません。

「幸村」の名前は、江戸時代に流行した講談によって広まったといわれていますが、それ以前、大坂夏の陣から20年経った頃にはすでに「幸村」の名前が一般的になっていたようです。

二次史料になりますが、幸村の兄・信之さんが語ったとされる言葉を家臣が書き残した史料が松代藩にあります。それによれば、「信繁は大坂城に入城するあたりから自分で『幸村』と名乗っていたよ」と書かれています。

真田家とゆかりの深い高野山蓮華定院には、161552幸村から書状が送られてきたという記録が残っています。「わたしどもは負けるでしょう。(九度山幽閉時代)お世話になったお礼に正宗の短刀を贈ります」と書かれ、「幸村」の押印があります。残念ながら、残っているのは書状の写しと、刀の押し型だけ。肝心の書状の原本も、譲り受けたとされる短刀も残っていませんので、信ぴょう性が問われるかもしれませんが。

幸村は文禄3年(1594)、従五位下左衛門佐の官職を受けています。多分、当時「左衛門佐(さえもんのすけ)」の呼び名で通っていたのではないでしょうか。

私自身は繁信でも幸村でもどっちでもいいと思っています(笑)。

 

さて、1600年、天下分け目の関ヶ原合戦が起こります。真田家は兄信之が東軍の徳川方に、父昌幸と幸村は西軍の豊臣方につきます。親子が敵味方に分かれるわけです。東軍が勝ったことにより、昌幸・幸村父子は高野山九度山に流されます

 

九度山は結構居心地がよかったんじゃないかな。一緒に連れて来た家臣15人の屋敷をそれぞれ建ててやっていますし、イノシシ狩りや川遊び、また20キロ歩いて和歌山城下へ碁を打ちに出かけたりしています。

九度山の昌幸さんが信州上田にいる息子・信之さんに出した手紙には生活の困窮が書かれ、苦労したと読まれていますが、なかなか、昌幸さんは「上田はまだ俺のものだ」と思っていたフシがあり、大名気質が抜けてないんですよね。だから「品物を送って寄越せ」と強気で無心していた感じがします。

幸村が九度山時代に書いた「この壺に焼酎を詰めて送ってください」の手紙も有名ですね。

焼酎と聞いたら皆さん安酒と思うでしょ。でも当時は高級酒だったんです。しかも“米ぬか”で作った最高級酒を幸村さんは所望しています。自分の家臣に宛てて、「この壺に詰めて送れ、口までいっぱい入れて送るんだぞ、わかってるだろうな」と。これはお願い状ではなく命令書なんですね。

苦労したんだと読んでしまいがちな手紙ですが、意味合いがちょっと違うと思いますね。


 

勝てると思っていたのは大坂城入城まで

1611年に昌幸さんが亡くなると、15人いた家臣は3人だけを残し、他は去ってしまいます。幸村さんは語り合う父をなくし、寂しく悶々と暮らしていたのではないでしょうか。

3年後、豊臣と徳川との反目が大きくなり、豊臣方は各地の牢人を助っ人として招集します。大坂から幸村のもとにも使者が来ます。黄金200枚で召しかかえたいと。

いったいいくらぐらいになるんでしょうかね。よく言われるのが、当時の大判1枚は今の金額に換算すれば約10万円だと。そうすると、かなりの金額だったはず。

幸村さんが豊臣方についたのは「死に花を咲かせるため、負けるとわかっていた戦に義を立てて…」なんて言う人がいますが、九度山を出るとき、幸村には勝算があったと思います。戦国の武将たるもの、負け戦に加わるほど甘くはないですよ。

九度山を勇んで出立した幸村ですが、大坂城に入った途端「あれ?」と思ったでしょうね。大坂城は魑魅魍魎(ちみもうりょう)の世界。政治的なチカラがない幸村さんでは到底太刀打ちできなかったでしょう。

戦争というものは統率力の結果です。ところが大坂城は烏合の衆の集まり。たとえどんな名将であったとしても、まとめるのは至難のワザだったでしょう。

 

幸村は父昌幸から常々「外に出て戦え、籠城はだめだと教えられてきました。ところが大坂城では「籠城」の一点張り。それではと、知恵を働かせて幸村が築いたのが「真田丸」の出城です。

大坂冬の陣ではまともに戦ったのは幸村の「真田丸」だけ。あとは連戦連敗です。

いったい「真田丸」の勝因はどこにあったかですが、その戦法は一次上田合戦と二次上田合戦のままです。自分の軍勢は砦のなかでじっと待ちます。相手方に悪声罵声を浴びせかけ、いきり立って攻めて来たところを、矢や鉄砲を集中投下し、コテンパンにやっつけます。相手が勝手に攻めて来て、自分で負けて帰るわけです。

これを「真田丸」でもやったんですね。偶然、真田丸の火薬庫でちょっとした爆発が起きたのを、徳川方は内応者の合図だと勘違いして、わぁっと攻め寄せてきて、みんな空堀に落っこちて、自滅したんですね。たくさん死んでいますよ。

 

徹さん怒る「大野治長、戦する気があったのか!」

幸村の活躍で勝ったというのに、講和の条件として大坂城の堀を埋められ、裸同然になっしまう。

それはないだろうと思うね。

大坂城で指揮をとっていた大野治長、いったいどういうつもりだったんだろうね。牢人を集めるだけ集めておきながら、結局「ここで守りましょうね」と、戦はしないし、堀を埋められるのをみすみす許してしまうし…。いつも思うんだけど、大野は本当に戦う気があったのかなぁ。どうしようもないね。言ってるうちに、ホント腹立ってきたわ!

真田軍と伊達軍が激突、伊達の騎馬鉄砲隊のウラをかく

続く大坂夏の陣では野戦するしかないんですよ。

道明寺の戦いでは、幸村が霧で4時間遅れて待ち合わせの場所に到着、そのあいだに後藤又兵衛が討ち死にします。

しかし、ぼくに言わせると、霧で4時間も遅れるようでは名将とは言えない、ぼんくらですよ。

あの作戦は、後藤又兵衛と幸村とのあいだで約束ができていたのだと思います。「幸村さんは遅れて来てください。ぼくが先に行きますから」と。又兵衛は独立独歩、男の美学に酔いしれ、死に急ぐんですね。

 

後藤又兵衛の軍は伊達政宗の軍勢に討たれます。そして、勝ち戦に意気揚々と進軍してきた伊達軍と、遅れてきた真田軍とが鉢合せし遭遇戦となります。

幸村軍3千、片や伊達軍1万。伊達の騎馬鉄砲隊を率いるのは片倉小十郎代目

当時の火縄銃はもうもうとすごい煙が出ました。一斉に銃を放ち、煙幕を張ったところに、煙の中から馬が突然出てくるんですから、それはもうびっくりしたでしょう。伊達はこの戦法で勝利をあげていました。

ところが真田軍はその手には乗りません。得意の引きつけ戦法です。じっと這いつくばり、槍を持って待ちかまえ、煙の中から出て来た騎馬隊を突くんですね。伊達軍に大打撃を与えます

そのとき、八尾・若江の敗報と退却命令が大坂城から届きます。

しんがりを務めた幸村が有名なことばを残しています。「関東勢百万と候え、男はひとりもなく候」(関東武者は百万あっても、男子は一人も居ないものだな」)と徳川軍をあざ笑って去って行きます。

天王寺博、茶臼山で稽古中の甲冑隊
天王寺博、茶臼山で稽古中の甲冑隊

大坂夏の陣では茶臼山に幸村の本陣が
大坂夏の陣では茶臼山に幸村の本陣が
伊達政宗(天王寺博の映像館前)
伊達政宗(天王寺博の映像館前)

片倉小十郎が幸村の娘を引き取れたのはなぜか?

幸村には娘が八人いたようです。三女の阿梅(おうめ)は大坂夏の陣のときには13歳か14歳、次男の大八はわずか3歳。戦場から6日に戻った幸村は落城必至と覚悟。手元に置いていた阿梅と大八を何とか助けたいと思い、先ほど戦った片倉小十郎、立派によく戦ったあの男に愛娘と息子を預けようと決心するんですね。

司馬遼太郎の小説では、片倉小十郎が絶世の美女の阿梅を見染めた話になっています。

しかし、どっちも無理があります。さっきケンカしたばかりの相手に娘をお願いされて、小十郎がそうやすやすと引き受けるでしょうか。それに小十郎は伊達政宗のイチの家臣。主君の許しなくして、勝手に決めることなどできないでしょう。

 

これから先はここだけの話。

 実は真田家と片倉家はそれ以前からつながりがあったんですよね。

 片倉さんはもとは信州諏訪大社の下社の神主。事情があって、米沢に流れ、伊達家に仕えます。

 真田は海野の一族、山伏の系統です。中世や近世、山伏や芸人は各地で情報収集するスパイもしていました。片倉とは同郷つながりもあって、接触があった可能性があります。

さらに、うちに代々伝わっている話では、豊臣秀吉の時代、京都にあった真田家の屋敷と片倉家の屋敷が向い合せか隣り合わせであったと聞いています。お互い顔を合わせることがあったでしょうし、行き来があったかもしれません。

もっと大事なことは、なぜ政宗が片倉小十郎に、真田の娘を引き取ることを許したのかということです。

 

幸村と政宗は年齢がほぼ同じです。政宗が“家康の首を取ってくれたら、なんでもしてやる”と幸村に持ちかけ、ふたりのあいだに密約があったと見ています。家康が亡くなれば、政宗は自分が江戸幕府を牛耳れると思っていたでしょうからね。

 

惜しくも幸村は家康の首は取れませんでしたが、家康を心胆寒からしめるまで追い詰めました。

「いい夢を見せてもらった」と政宗は満足し、幸村の子どもを引き取ることを許したというのが隠された歴史ではないかと考えています。

最終的には幸村の子ども五人、次男の大八、三女の阿梅、それに六女・七女・八女が片倉小十郎の元に落ち着きます。阿梅は後に片倉小十郎の正室として後添えに入り、大八は伊達の家臣になっています。ふたりのお墓は宮城県にあるんですよ。

 

 そろそろ時間切れです。最後に言っておきたいことがあります

戦国時代の戦いをカッコいいと思い込んではいけません。そんなものではありません。戦争なんかしちゃいけないんです。隠れて見えない裏側の歴史に目を向け、何があったのかを考えてほしいと願っています。

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玉造の最寄駅

JR環状線「玉造駅」

大阪市天王寺区玉造元町1-40

地下鉄長堀鶴見緑地線「玉造駅」

大阪市天王寺区玉造本町1-2

「真田丸」はここだ! 玉造地図

大阪歴史博物館が推定した真田丸跡をめぐりながらお店めぐりも。

愛用のカメラとICレコーダーです
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玉造イチバンの管理人です。私は玉造で生まれ育ち、今も玉造に住んでいます。たくさんの方に玉造を知ってもらいたく、2013年2月にこのサイトを立ち上げました。玉造を盛り上げる情報を発信していきたいと思っています。