講談師 旭堂南陽(きょくどうなんよう)さんが語る真田幸村

 講談を聞いたことがおありですか。

 おそらく、「ない」という方が圧倒的ではないでしょうか。

 

講談師は全国にわずか80名しかいません。関西にはそのうちの20名。ご紹介が遅れましたが、関西の貴重なその1名が、わたくし旭堂南陽(きょくどうなんよう)でございます。

 

講談は600年前に始まった芸能です。その始まりについては諸説ありますが、一説によれば、いくさでケガをした武士たちが戦場での出来事を話しまわっているうちに、それが講談になったといわれています。

 

よく聞かれるんですが、講談と落語はどう違うんですかと。落語は笑いが目的なのに対して、講談はストーリーが目的です。その話を通じて何を伝えるかに重きを置いているんです。

ざっくばらんに言うと、講談はスポーツ新聞のようなもの。昨日阪神が勝ったと知っていながら、翌日スポーツ新聞を読むのと同じように、真田幸村がどのように戦い、どのように勝ったかはすでに知っているけれど、それをもう一度詳しく追体験できるのが講談なんです。

 

なにより大事なのが語り口。独特のテンポとリズムに乗せ、血湧き肉躍る圧倒的迫力で語り聞かせる、話芸の妙味が講談の醍醐味です。ぜひ一度、ライブでご体感いただきたいものです。

 

真田家の戦上手はどこから来ているか

実は、わたくし、大阪日日新聞に毎週土曜日連載記事を書いています。

「大坂の陣400年」のイベントが企画されていると聞き、真田幸村を取材するため、長野県の上田と松代に行って来たんです。上田は幸村の故郷。一方、松代は真田家が藩主を務めた十万石の城下町です。

 

今回の旅で、ある疑問が解けました。幸村をはじめ、真田家はいくさ上手ですが、いったいだれから教わったか、です。

 

関西に住んでいると、土地の実感がないんですが、現地に行ってわかったことがあります。上田から川中島は非常に近いんですよ。川中島というのは武田信玄と上杉謙信が五度にわたっていくさをした合戦場です。

 

武田軍には隻眼の軍師・山本勘助がいました。「川中島第四次合戦」のとき、勘助は敵の背後をどんどん突いていく「きつつき戦法」を考え出すのでございますが、これが上杉謙信に見破られたため、命を賭して敵陣に突っ込んでいき戦死します。

 

真田幸村の父・昌幸は、武田家に人質として預けられ、家臣となっていました。昌幸は勘助から、実戦を通して常勝軍武田の知識を学ぶわけです。

勘助いわく、「弱小の武将や大名は城づくりを学ばねばならない」「城づくりがうまくなると、敵城の弱点がわかるようになる」

 

 この言葉を胸に刻んだ昌幸は後に“城攻めの名人”といわれるようになり、自ら築城した上田城で、徳川勢を2度にわたって撃ち破るのです。「第二次上田合戦」では関ヶ原に行く途中の、4万近い徳川勢を、上田城に立てこもり釘付けにするという、スゴい手腕を見せます。

 

その血を継いだのが息子、幸村。「大坂冬の陣」で出城“真田丸”を築き、大軍の徳川勢に勝利するのです。

 

徳川家康は幸村より先に死んでいた!

 軍談「難波戦記(なんばせんき)」には真田幸村が活躍する話が出てきます。よく高座にかけられる有名なお話といえば「九度山脱出」「平野の地雷火(別名、徳川家康の最後)」「くらわんか舟」でしょうか。

 

 「平野の地雷火」は「大坂夏の陣」の出来事を描いたもの。

平野に陣を移した徳川家康が、仕掛けられた地雷にまんまとやられ、お供2人に付き添われ逃げ延びますが、途中で、豊臣方の勇将・後藤又兵衛(またべえ)に遭遇し、槍でつかれ、駕籠の中で絶命します。秘密裏にその亡骸を堺の南宗寺に弔い、その後は、家康の影武者が「大坂夏の陣」を戦ったという一席。

 

 だれですか、「ありえない」なんて無粋なことを言う人は。

 とはいえ、わたしも師匠に尋ねたことがあるんです。「何か証拠はあるんですか」と。そうしたら師匠が「先の大戦で記録がすべて焼けた」と言うんです。

 

真田幸村は本当は大坂で死んでいない

もっとすごい話をお聞かせしましょうか。

 

真田幸村は安居神社で最期を遂げますが、討ち取ったのは徳川方の兵、西尾仁左衛門。「取ったぞ、幸村の首を取ったぞ」と、それはもう大喜びするのですが、ところが、だれに見せても「これは真田幸村の首ではない」と言われたそうです。そのうえ、これだけの大手柄を上げたというのに、西尾仁左衛門にはほとんどほうびが与えられなかったそうでございます。これはいったいどういうことでしょうか…。

 

講談では幸村は不運のヒーロー。頭もいいし、人望もあるんですが、自分と同じ立場の人たちからいつも嫉まれます。いい案をいっぱい出すんですが、全部却下され、残された狭い狭い道に活路を見出そうとします。そして、細い道を渡る中でさらにまた不運に見舞われます。そんな幸村をなんとか助けたいと思うのは判官びいきでしょうか。

 

上方講談では、安居神社で打たれたのは幸村の影武者、穴山小助であった。本当の幸村は秀頼公を連れて薩摩に落ち延びたと語り伝えております。

講談師の話はウソかホントか、わけがわかりませんが(笑)。

でも、鹿児島には秀頼公と幸村のお墓が残っているそうですよ。

 

来年再来年は「大坂の陣」から400年。大阪では色々イベントが組まれるようです。我々、講談師も、真田幸村を語り歩く年になりそうです。

201377日取材)

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「真田丸」はここだ! 玉造地図

大阪歴史博物館が推定した真田丸跡をめぐりながらお店めぐりも。

愛用のカメラとICレコーダーです
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玉造イチバンの管理人です。私は玉造で生まれ育ち、今も玉造に住んでいます。たくさんの方に玉造を知ってもらいたく、2013年2月にこのサイトを立ち上げました。玉造を盛り上げる情報を発信していきたいと思っています。