心眼寺に真田信繁(幸村)の墓~幸村は豊臣家大名だった~

「真田丸」跡に信繁父子を祀る心眼寺を創建

  1614年、慶長19年、真田信繁(幸村)は真田山に出城「真田丸」をつくり、ここで徳川の大軍を相手に勝利をおさめた。翌年、「大坂夏の陣」で幸村は討ち死にする。そして豊臣家は滅亡した。

 元和8年(1622)4月、白牟(はくむ)和尚が、「真田丸」があった場所に、幸村・大助父子の冥福を祈るために堂舎を創建。それが心眼寺(しんがんじ)である。寺の定紋は真田家の六文銭と定められ、山号は真田山だ。

 しかし当時、大坂は江戸幕府の直轄地であったため、豊臣方の武将であった幸村の墓をつくることは許されなかったようだ。

真田丸跡と記された江戸時代の古地図「大坂三郷町絵図」
真田丸跡と記された江戸時代の古地図「大坂三郷町絵図」
現在の地図。寺の並びは江戸時代のまま
現在の地図。寺の並びは江戸時代のまま
心眼寺前の「心眼寺坂」
心眼寺前の「心眼寺坂」
心眼寺の石段
心眼寺の石段

門前に「真田幸村出丸城跡」の石碑
門前に「真田幸村出丸城跡」の石碑
門扉に、寺の定紋「六文銭」が
門扉に、寺の定紋「六文銭」が

四百回忌に「信繁之墓」を

 幸村のお墓は建てられないままずっときたのだが、真田丸の戦いがあった「大坂冬の陣」から400年目にあたる2014年、信繁四百回忌に、ご住職の長年の願いが叶い、ついに墓碑が建立された。寺を入ってすぐの場所にあり、「従五位下 真田左衛門佐豊臣信繁之墓(じゅごいのげ さなださえもんのすけとよとみのぶしげのはか)」と記されている。お墓の横には説明板が(クッリクすると拡大)。

お墓の横には説明板(画像をクリックすると拡大)
お墓の横には説明板(画像をクリックすると拡大)

 信繁は豊臣の家臣であり豊臣大名であった

 歴史学者・平山優さんの 新著「大いなる謎 真田一族」(PHP文庫・2015年9月発行)によれば、文禄3年(1594)11月2日、信繁(幸村)は従五位下・左衛門佐に任じられたという。このときの口宣案(くぜんあん・口頭で伝えた控え書き)に「豊臣信繁 叙従五位下左衛門佐」と記されており、豊臣姓を許されたことがわかる(『柳原家記録』)。因みに豊臣姓は秀吉が創始したもので、弟秀長や甥の秀次らの親族のほか、毛利輝元や徳川秀忠らをはじめとする有力大名も多数、豊臣姓を下賜され名乗っている。   

 豊臣秀吉のもとに人質として送られた信繁であったが、秀吉の家臣・大谷吉継の娘を娶り、さらに従五位下左衛門佐に任官。また父・兄と共に京都伏見城の普請を命じられていることなどから考え、平山さんは、信繁は豊臣家臣、しかも大名として取り立てられていた。信繁は秀吉に気に入られていたと言い切る。これまで、「信繁は真田家の次男にすぎない」といった捉え方をされてきたが、それは違うということだ。豊臣家の大名であった信繁が秀頼の要請で大坂城に駆け付け、猛将として戦ったのは、律儀な信繁の最後のご奉公であったといえよう。

「大阪市顕彰史跡」にも指定され

 心眼寺門前に2015年「大阪市顕彰史跡」のパネルが設置された。

 「大阪市顕彰史跡」とは、市制70周年記念事業の一環として昭和34年より、大阪市教育委員会が大阪市の由緒ある史跡や文化財を顕彰するため「顕彰史跡」の建碑を行なっている。選ばれた史跡の所在地に、顕彰碑や顕彰パネルを設置し、大阪の歴史への理解を深める一助としている。

 2013年、森の宮貝塚が大阪市顕彰史跡に指定された。心眼寺は2014年度の9件のひとつに選ばれ、そのパネルが寺の玄関口に設置された。2016年1月から始まるNHK大河ドラマを意識した大阪市教育委員会のはからいだと思われる。

寺の向かい側に「真田丸顕彰碑」も

 心眼寺向かい側に2016年2月、「真田丸顕彰碑」が設置されることになった。

 真田信繁が九度山から大坂城に入城したのは1614年10月半ばだ。「真田丸」は11月頃からつくられはじめ、12月20日過ぎには埋められた。つまり1カ月ほどしか存在しなかった砦である。謎に包まれ、その場所についても議論されてきた。ここへきて、NHK大河ドラマ「真田丸」放映が決まり、「真田幸村」関連の本が次々刊行されるなど、真田丸研究に火がついた。千田嘉博さんや坂井尚登さんが新しい見解を唱え、平山優さんが膨大な史料を読みこんだ新著「真田信繁」(角川選書)を刊行している。総合すると、真田丸の本丸は大阪明星学園の場所にあったと意見が一致している。

 天王寺区役所では、心眼寺向かいにある大阪明星学園テニスコート外側に2016年2月「真田丸顕彰碑」を設置する。心眼寺と併せて訪ねてほしい。詳細はこちら

心眼寺坂に沿って大阪明星学園のテニスコートがある。その外側に「顕彰碑」を設置する。坂の右手、白い壁の寺が心眼寺だ。テニスコートの外側には「顕彰碑」建立を知らせる貼り紙が出ている。

戦前には松の木や軍薬も

 心眼寺境内には「まんなおし地蔵尊」がある。「まん」とは「間(ま)」のことで、「なんて間がよいのでしょう」などという「運」「巡り合わせ」の意味。まんなおしとは不運を幸運に変える〝縁起直し”だ。心眼寺の「まんなおし地蔵」は、開運を祈願すると、願いが叶うといわれ、庶民の信仰が篤く、かつては参拝が絶えなかったそうだ。戦前は、地蔵参りのお土産に「真田軍薬」なるものが人気であったとか。六文銭マークの袋に入れて売られていた黄色い粉末は、真田幸村が愛用していた傷薬であると、まことしやかに言われていた。

 また、寺の境内には「幸村鎧掛の松の木」があったが、第二次世界大戦の大阪空襲で寺を焼失したときに、松の木も失われた。

 今、寺には坂本龍馬を暗殺したといわれている京都見廻組の桂早之助と渡邊吉太郎の墓が、信繁の墓のすぐ近くに置かれている。「日本一の兵」と「龍馬暗殺犯」が隣り合う、なんとも不思議な縁。信繁もさぞや驚いていることであろう。

 

20158月10日・11月15日・12月23日

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心眼寺

天王寺区餌差町(えさしちょう)2-22 

●JR玉造駅から徒歩約15分

●地下鉄長堀鶴見緑地線玉造駅2番出口から徒歩約8分

Tel06-6764-0630


玉造の最寄駅

JR環状線「玉造駅」

大阪市天王寺区玉造元町1-40

地下鉄長堀鶴見緑地線「玉造駅」

大阪市天王寺区玉造本町1-2

「真田丸」はここだ! 玉造地図

大阪歴史博物館が推定した真田丸跡をめぐりながらお店めぐりも。

愛用のカメラとICレコーダーです
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玉造イチバンの管理人です。私は玉造で生まれ育ち、今も玉造に住んでいます。たくさんの方に玉造を知ってもらいたく、2013年2月にこのサイトを立ち上げました。玉造を盛り上げる情報を発信していきたいと思っています。