歴史学者・平山優さん「真田幸村の実像」に迫る

最新情報 平山優さんはNHK大河ドラマ「真田丸」の時代考証の担当です。信州上田真田丸大河ドラマ館のオープン100日前イベントでの講演会で、「三谷幸喜さんらと脚本を詰めていますが、ドラマは間違いなく面白いです」と言われています。

伝説の武将は実戦経験わずか2

昨年(2014)111日、「天王寺 真田幸村博」が真田山公園で行われた。その目玉企画として、歴史学者、平山優(ひらやま まさる)さんの「幸村トークショー」が開かれた。平山さんは戦国大名・武田家の在地支配や家臣団の研究で新境地を開き、さらに「真田三代 幸綱・昌幸・信繁の史実に迫る」(2011年・PHP新書)の著書もあるなど、真田家の歴史にも造詣が深い。トークショーでは、史料をもとに幸村の実像を明らかにした

 

2014年秋開かれた「天王寺真田幸村博」チラシ
2014年秋開かれた「天王寺真田幸村博」チラシ
平山優さん
平山優さん
幸村博オープニングは三光神社の枕太鼓
幸村博オープニングは三光神社の枕太鼓

謎に包まれた実像、生まれたのはいつか?

皆さんこんにちは。平山優です。2016年のNHK大河ドラマの主人公に真田幸村が決まり、真田家の調査をずっとしてきた私の身辺もにぎやかになってきました。

幸村は死んだのち、伝説の武将となった人物ですが、実は実戦経験がないと言っても過言ではありません。なぜなら、青年期にはもう戦争が終わっていたからなんです。

その実像は謎に包まれています。たとえば、生まれ年がわかっていません戦国武将は意外にも生まれ年がわからないことが多く、幸村も明らかではありません。

死んだ年齢を49歳とする説と46歳とする説があります。49歳説は松代藩の編纂物「真田家御事績稿」、46歳説は仙台真田家の系図によります。

享年49歳説の場合、逆算すると生まれは永禄10年(1567となりますが、それでは史実に合わないことが出てきます。幸村は上杉家に天正13年(1584)、人質に出されます。永禄10年の生まれなら、このとき数えで18歳、すでに元服しています。元服すれば幼名は使わないのに、当時の史料には、幸村の幼名「弁丸」と出てきます。これは辻褄が合いません。

一方、享年46歳とすると、生まれは元亀1年(1570。人質に出されたときは13歳か14歳。名前が幼名であってもおかしくありません。整合性から見て、46歳説が近いと考えられます。

九度山に隠棲していた幸村が自分自身について「歯が抜け、髪は真っ白」と語っています。大坂冬の陣で幸村に会った人の覚書が残っています。それによれば、勇敢な武将のイメージとはかなり違って、実際より老けて見えたようです

 

「幸村」の名前は後世の創作

先ほどから「幸村」と言っていますが、これは本当の名前ではありません。当時は、人を呼ぶときは諱(いみな・実名)で直接呼んではいけない、失礼にあたると考えられていました。元服したら仮名(けみょう・通称)で呼ばれていました。

「真田幸村」、ここではそう呼ぶことにして、諱は「信繁」が正しいと思われます。武田信玄の弟、武田信繁にあやかったとも考えられますが、確証はありません。信繁が亡くなって50年経ったころ、寛文12年(1672)「難波戦記(なにわせんき・なんばせんき)」が出版されます。大坂冬の陣夏の陣を詳しく描いた軍記物ですが、ここで初めて「幸村」の名前がでてきます。真田家は幸村の祖父が「幸綱」、父が「昌幸」、兄が「信幸」と、「幸」が真田家の通り字です。しかし、信繁がなぜ「幸村」になったのかわかっていません。江戸時代、「幸村」と突然言われ出し、その名前が広がって有名になり、真田家松代藩でも「幸村」というようになります。その影響がいかに大きかったか、このことからもわかります。

 

幸村は武田信玄と会っていたか?

余談ですが、「幸村は武田信玄と会っていたか」こういう質問を受けることがよくあります。

 幸村は甲府で生まれています。信玄の最晩年の時期に生まれており、顔を見た可能性は十分ありますが、覚えていたかどうか…。兄の信幸は覚えていた可能性が高いですね。

 天正13年、上杉からの援軍をもらうため、幸村は上杉家へ人質に出され海津城に送られます。同月、第一次上田合戦が起こります。幸村が活躍した記録は残っていません。海津城にいたので出陣はしていないはずです。その後、幸村は上杉の本拠地・春日山城に送られています。ここで、上杉景勝本人と重臣の直江兼続には会ったと思われます


幸村の初陣はいつか?

 少しおさらいしておくと、天正10年武田家が滅亡すると、真田昌幸は織田信長の重臣、滝川一益の与力武将となりますが、3カ月後に本能寺の変が起き、天下統一の動きは羽柴(豊臣)秀吉に受け継がれます。九州を平定した秀吉は関東の北条を従わせようとし、小田原合戦を起こします。合戦のきっかけとなったのは真田家の領地である上野(群馬県)名胡桃城(なぐるみじょう)。その当事者であった真田一族は先鋒に立って戦いました。幸村の初陣は天正18年(1590)の小田原合戦だったといわれています。

軍記物「滋野(しげのせいき)」には、北条の軍勢が真田を中心とした豊臣方の軍勢をせき止めようとしたその前哨戦で、信幸と幸村が活躍した模様が描かれています。碓氷(うすい)峠(軽井沢)で「源次郎信繁(幸村)、自身に働き、手を砕きて高名あり」と手柄をあげたと記述されています。碓氷峠を突破した真田軍は松井田城と蓑輪城を攻略し、南下して鉢形城を攻め、さらに八王子城の攻防戦に加わります。ところが、当時の古文書に「信繁」の名前は見当たりません。しかし、成人に達していたので、これが初陣であったとしてもおかしくありません。

小田原城が降伏したことで天下統一され、これ以降、ぴたっと戦争がなくなります。秀吉が朝鮮出兵を行ったときには、真田家は肥前や名護屋城には行っていますが、海を渡って朝鮮に行った記録は残っていません。

 

2度目の出陣は第二次上田合戦

 では幸村の2度目の出陣はいつか、これはしっかりした記録が残っています第二次上田合戦です。関ヶ原の戦いが起こり、真田家は、長男の信幸が徳川方に、父昌幸と幸村は豊臣方につき、一族で袂を分かちます。

徳川家では、家康が豊臣恩顧の武将を率いて関ヶ原で陣取っていたのに対し、秀忠は38千の徳川本隊と共に中山道を進み、関ヶ原へ向かっていました。その道中、昌幸・幸村を攻略しようと仕掛けてきます。幸村は要害堅固の戸石城にいました。兄、信幸が秀忠の命を受け、戸石城を攻めるため向かっていると聞くと、親族での戦いを避け、上田城へ撤退します。徳川軍は上田城だけに注力し攻撃しかけてきたところへ、伏兵を置いた真田軍は奇襲をかけ、混乱している秀忠軍に鉄砲を浴びせかけ、大打撃を与えます。真田軍はわずか2千で勝利します。秀忠軍は真田攻略をあきらめ、関ヶ原へ向かいますが、すでに合戦は終わっていて、秀忠は父家康から厳しく叱責されます。これはもう完全に昌幸の方が上手。秀忠はまんまと術にはまり、上田で足止めさせられ、関ヶ原へ遅参させられました。秀忠はこのとき初陣です。

幸村博会場で
幸村博会場で

 

九度山時代に人材を築く

 昌幸・幸村の活躍にもかかわらず、関ヶ原の戦いの結果、豊臣方についたふたりは九度山へ配流されます。暮らしぶりはどうであったか。地元の人たちと付き合っていたと思われます。その証ともいえるのが、幸村が大坂城に入城したとき、高野山周辺の土豪を伴っていたことや。また、真田鉄砲隊は百発百中という記録があり、地元の猟師がたくさん混じっていたことからも伺えます。

 後年、兄信幸は弟について「怒ることのない、穏やかな人間」と評しています。その人柄で地元の人たちともうまくやっていたでしょう。しかし生活に困っていたようで、お金を送れという本国に宛てた催促の書状が残っています。

父昌幸は死ぬ前に幸村にこう言い残しています。「もし豊臣と徳川の間で戦いが起これば、おれなら、近畿地方に入ろうとする徳川勢をおさえこんで長期戦に持ち込み、その間に味方を増やしていくが、無名のお前ではこの戦略は無理だ。長期戦も籠城戦もダメだ」と。その予言どおり、大坂の陣で幸村は味方から信用されず、嫉妬され、その結果、彼の戦略は実ることはありませんでした。

 

秀頼から支度金4億円

 徳川家と決裂した豊臣家は各地の牢人やかつての豊臣恩顧の武将に援軍を依頼します。九度山の幸村の元にも秀頼から当座の支度金として黄金200枚、銀30がもたらされます。黄金1枚が10両ですから、200枚なら2000両。当時の大工の手間賃から割り出すと、現在の3億円相当、これに銀309000万円足すと、4億円もらったことになります。さらに、徳川を打ち負かせたら50万石やるといわれています。信濃1国が41万石ですから、それより大きい国をもらう約束ができていたことになります。

 

大坂城での立ち位置は3番手

 大坂城に入城した幸村は、長宗我部盛親・後藤又兵衛に次ぐ3番手だったといわれています。入城すると、兵隊をまとめて真田丸の建設を急ぎます。半円形の真田丸は信玄流の丸馬出しの砦。武田の技術が戦国最後の合戦で活用されます。今日講演している真田山公園は真田丸の戦いがあったときには宰相山と呼ばれ、徳川方の前田利常の陣地が敷かれていた場所です。400年前、このあたり一帯で真田丸の攻防戦がありました。真田軍に嘲笑された前田軍は真田丸へ殺到します。戦功をあげたいあせりもあったでしょう。それを見た井伊軍も負けてはならじと押し寄せ、大混乱に。真田大助らが鉄砲を浴びせかけ徳川方の被害は2日間で1万とも15千ともいわれています。1部隊が全滅したに等しい被害を出した計算になります。この功績で幸村は秀頼からも牢人衆からも一目置かれるようになります。

幸村博での墨絵師・御歌頭(おかず)さんのパフォーマンス
幸村博での墨絵師・御歌頭(おかず)さんのパフォーマンス

幸村博の展示「家康本陣跡」のパネルと出土品
幸村博の展示「家康本陣跡」のパネルと出土品

伊達軍との衝突は手痛い打撃

 和睦した豊臣と徳川のあいだに再び不穏な空気が生じます。豊臣方が浪人を解雇しないことを問題視した徳川方は戦を仕向けてきます。家康が幸村を引き抜くために、父昌幸の弟である信尹(のぶただ)を使者として遣わせ、10万石とも50万石とも提示したと伝わっています。

 慶長20年(161556日、道明寺合戦。先手を打って徳川方を攻撃しようと、豊臣軍は隘路で待ち伏せする計画をたてますが、霧にまかれて連携がとれず、後藤又兵衛が討ち死に。遅れてやってきた幸村はここで伊達政宗軍と激突し、手痛い打撃を受けます。これが翌日の最後の決戦に響いたといわれています。

 撤退を命じられた豊臣軍のしんがりを幸村が務めます。そのときに残したのが「関東武者は百万あっても男子はひとりもいない」という有名なことばです。

 

最後まで粘って戦う

 翌57日、真田隊は毛利勝永と共に茶臼山に陣を敷きます。最終決戦のときに徳川軍の足並みが乱れます。冬の陣で家康から「バカ者」と叱責された本多忠朝が向こう見ずにも突撃し、また、家康の叱責を前日受けた小笠原秀政も無理に割って入り、徳川方に混乱が起きたのです。攻めようとする一群と逃げようとする流れのあいだをこじあけて毛利軍と真田軍が突撃し、家康本隊に突っ込みました。幸村は3度突撃し、とうとう力尽き、安居天神で休んでいた時に、越後の西尾という名もなき武将に討たれます。

 

本当に勝ち目はなかったのだろうか

 真田軍に勝ち目はなかったのでしょうか。あったと思います。

 真田と毛利のうしろに秀頼の側近七人衆が続いていれば、事態は変わっていたでしょう。大将の秀頼は5万の本隊を温存させたまま大坂城桜門で待機していました。秀頼の名誉のために言っておきますが、母淀殿に止められて出陣できなかったというのはデタラメ。混乱して連絡が来なかったため、出陣できなかったんです。

 

その後の子どもたち

 幸村の息子大助は大坂城で秀頼に従い殉死。三女阿梅は仙台藩片倉小十郎にかくまわれ、後に妻に迎えられています。幸村が大坂城に籠城していたときに、長女の嫁ぎ先、信州長久保宿本陣4代目当主の石合十蔵に宛てて「娘のすへを頼む。大事にしてやってくれと」と手紙を送っています。幸村の父親としての一面が垣間見られる貴重な史料。子を思う気持ちが偲ばれます。

 

幸村が勝てたのはなぜか

 幸村は実戦経験がわずか2回という平山さんのお話には驚かされた。しかし、疑問に残ったのは、そんな幸村がなぜ「大坂の陣」であれほどの活躍ができたのか。また、「真田丸」をわずかな日数でつくりあげることができたのはなぜか。

 九度山で毎日、父昌幸の話を聞いて暮らし、それを自分の経験のように身に沁み込ませることができたからなのか。もしくは天賦の才能?! いったいどういう人物であったのだろう。ますます謎が深まった。

 

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「真田丸」はここだ! 玉造地図

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愛用のカメラとICレコーダーです
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玉造イチバンの管理人です。私は玉造で生まれ育ち、今も玉造に住んでいます。たくさんの方に玉造を知ってもらいたく、2013年2月にこのサイトを立ち上げました。玉造を盛り上げる情報を発信していきたいと思っています。