真田丸の場所はここだ! 大阪明星学園に「真田丸顕彰碑」&「真田丸プレミアムトーク」

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 NHK大河ドラマ特別展「真田丸」を2016年9月17日~11月6日開催の大阪歴史博物館が「真田丸」の場所を推定している。ダウンロードして活用を。

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玉造では真田丸の衣装を着て撮影できます


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12月3日(土)小学生以下の男児の撮影を「ケイツーフォトスタジオ」で開催

12月18日(日)どなたでも写真スタジオ「ブライダルK」で撮影できます

 真田丸はどこにあったか? どんな構造であったか? 書店にはコーナーがつくられ、「真田丸」「真田信繁」関連の雑誌や新刊が山積みされる一方、テレビやラジオでも話題のマトに。NHK大河ドラマ「真田丸」の放映が始まる前から、早くもブレイクしている。

 

真田丸の場所はここだ!

 では、いったい真田丸はどこにあったのか。

 元和8年(1622)、白牟(はくむ)上人が真田幸村・大助父子の冥福を祈って、真田丸の跡地に、心眼寺(しんがんじ)を創建したといわれている。

 心眼寺の前には心眼寺坂が通り、坂道を隔てて、大阪明星学園が建っている。

 真田出丸跡と記された古地図「大坂三郷町絵図」や当時の史料、地形などから見て、真田丸は、大阪明星学園の場所にあったとする説が有力だ。住所でいうと大阪市天王寺区餌差町(えさしちょう)である。

「大坂三郷図」のひとつ。国立国会図書館所蔵「大阪町中並中村々絵図」

 

大阪明星学園に「真田丸顕彰碑」を

「天王寺 真田幸村博」を開催してきた天王寺区役所では、大阪明星学園の協力を得て、テニスコートの外側に「真田丸顕彰碑」を2016年2月設置が決まった。

 

心眼寺坂の西に大阪明星学園のテニスコート

 テニスコートの網フェンスに「顕彰碑建立のお知らせ」が貼られている(2015年11月撮影)。

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「真田丸顕彰碑」除幕式が2016年2月1日に

2月1日11時から「真田丸顕彰碑」除幕式が行われた。制作にあたっては監修を大阪城天守閣に、題字は天王寺区出身の書家、脇田龍峯さんが担当した。詳細はこちら

場所は天王寺区餌差町5-44大阪明星学園テニスコート外側。心眼寺坂の興徳寺前。

詳しい場所はこちら

 

大阪明星学園のテニスコートから見た心眼寺坂

興徳寺(こうとくじ)の、大きな准提(じゅんてい)観音が見える
興徳寺(こうとくじ)の、大きな准提(じゅんてい)観音が見える

地図で見てみよう

坂をはさんで、大阪明星学園と心眼寺がある

地図の餌差町と書かれている部分は明星のテニスコートとグラウンドに当たる。

 

真田丸は斜面に建てられた砦、巨大な滑り台の形…

 大阪明星学園は盛り土をして校内を整備したわけだが、もともとはこの場所は斜面だ。下の写真を見てほしい。自転車を押して坂を上がっている人が見られるとおり、ちょっときつい坂だ。ここに真田丸をつくったのだとしたら、砦は斜面につくられたことになる。真田丸3G復元図は大抵、砦は平面で描かれている、現地を歩けば、そうでないことがわかる。真田丸本体はほぼ大阪明星学園の敷地にあたるとすれば、横幅140m、長さ約200mの、巨大な滑り台のような形をしていたことになる。ここで戦っていたのであれば、バランスが悪くて、大変だったと思う。

 

心眼寺坂を上って行くと、左手に心眼寺、向かいに大阪明星学園が

心眼寺の石段
心眼寺の石段


門前に「真田幸村出丸城跡」の石碑
門前に「真田幸村出丸城跡」の石碑
心眼寺を出ると興徳寺観音像が
心眼寺を出ると興徳寺観音像が
興徳寺は鯉の池で有名
興徳寺は鯉の池で有名

四百回忌に、心眼寺に「信繁之墓」が

 信繁四百回忌に当たる2014年、心眼寺に墓碑が建立された。墓には「従五位下 真田左衛門佐豊臣信繁之墓(じゅごいのげ さなださえもんのすけとよとみのぶしげのはか)」と記されている。

 ここで質問。「真田左衛門佐豊臣信繁」とあるが、信繁は豊臣姓を名乗っていたのだろうか。この答えがわかると、信繁が勇猛果敢に戦った理由が見えてくる。この続きはこちら

 大阪明星学園はカトリックのミッションスクール

屋根の上には聖母マリア像

 真田丸の場所といわれている大阪明星学園は、明治31年(1898)に創立。カトリック男子修道会「マリア会」から派遣されたウォルフ氏によって語学学校としてスタートした。大阪市西区江戸堀から南区千年町へ移り、現在地の真田山に移転してきたのは明治36年(1903)のこと。フランス風のハイカラな校舎で、英語とフランス語に特色のある「語学の明星」で名を馳せたという。

 しかし、1945年の大阪大空襲で玉造一帯はすべて焼けた。同校は大阪明星学園として再出発。カトリック・ミッションスクールの男子校(中学高校6年一貫)で、1970年代前半まで、夏の高校野球大会に8回出場し、第45回大会で優勝している。

 大阪明星学園のシンボルはなんといってもマリア様だ。最上階にたたずむ美しい姿、夜はライトアップされ、暗闇の中に神々しい姿が浮かび上がる。大阪明星学園が建っている餌差町交差点のあたりは玉造で最も高い位置にあたる。今は高層マンションが多いため視界が遮られるが、少し前までは玉造の様々な場所からマリア像が望めた。

 実は、明星学園のすぐ近くで生まれ育ち、今も近くに住んでいるのだが、校内に入ったことが一度もなかった。今年11月3日、同校で「真田丸プレミアムトーク」が開かれこのイベントに参加するため初めて校内に入ることができた

大阪明星学園の正門。右から3つ目の建物の屋上にマリア像が立つ
大阪明星学園の正門。右から3つ目の建物の屋上にマリア像が立つ

正門横にある聖堂の入り口にもマリア像が。突き当りには「学園の聖母」像。


屋上にそびえる聖母マリア像は北の方角、大阪城を向いている。左の写真がアップ。手を広げ、優しいお顔。


 

「真田丸の戦い」を鎮魂するマリア様

大阪城を向いて祈りを捧げる

 正門の右手に聖堂があり、入口には、イエス・キリストを抱いたマリア像がある。

 正門突き当りに「学園の聖母」像。

 さらに、屋上にも聖マリア像。 

 マリア像のシャッターを次々押しながら、ハタと気がついた。真田丸の戦いでは1万を超すともいわれる死体が累々と重なりあっていたという。悲惨な戦場であった場所をマリア様が見守っている。これは、マリア様が真田丸の戦いで亡くなった者たちの霊魂を慰めているのではないだろうか…。 明治36年この地に明星学園が移ってきたのは偶然のめぐりあわせであったのだろうか…。神の力が働いていたのではなかったか…。

 屋上の聖母マリア様は大阪城を向いて立っている。死者の安らかな永眠を願って、そして、戦いのない平和な世を願って、大阪城に向かって祈りを捧げている…。落ち着いた雰囲気の明星学園の校内で、突然こんな思いが浮かんできた。

 私もまた中学高校をミッションスクールで6年過ごした。真田丸の跡地といわれるこの場所に大阪明星学園が建っている意味を今回しみじみと考えた

 

「真田丸プレミアムトーク」

千田嘉博氏の講演と、大河ドラマ「真田丸」プレミアムトーク

 真田丸の跡地、大阪明星学園で行われた「真田丸プレミアムトーク」。真田丸の新説を唱え、いま注目されている奈良大学学長の千田嘉博さんは「豊臣大坂城と真田丸~真田信繁の戦略を読む」のタイトルで講演。「諸国古城之図」をもとに真田丸は大きな丸馬出しと、その後ろに小さな曲輪の二重構造であったこと。守りではなく攻めの砦であったこと(詳細はこちら)。さらに「大坂三郷町図」と、1948年敗戦後の航空写真で真田丸の堀跡を割り出し、真田丸は大阪明星学園にあったと断定した。

 そのあと、来年1月10日から始まるNHK大河ドラマ「真田丸」のチーフプロデューサー屋敷陽太郎さんが登壇。「名だたる武将たちが関ヶ原や大坂の陣で命をかけて合戦したのに対して、有名な俳優たちが芝居合戦するのが大河ドラマだ」とコメント。

 最後に、大河ドラマ「真田丸」で、徳川四天王のひとり本多忠勝を演じる俳優の藤岡弘、さんが大きな拍手で迎えられ登場した。「尊敬する忠勝ゆかりの地をいろいろ巡り歩いていた。今回、忠勝のオファーをいただいたときは本当にうれしかった」と明かす一方、「忠勝は57回も戦に出たが、無傷であったことから猛将といわれてきたが、誤解がある。彼は情報戦を制した知将であり、また部下たちが命をかけて守りたいと思わせる人格者であった。それゆえ無傷であったのだ」と太い声で熱く語った。

 

明星中学校3年生による「真田丸」の研究発表も

 真田丸跡地で勉強している明星学園の中学生と高校生。学園を代表して、中学3年生が「真田丸」の自由研究を発表。最優秀作品2つが発表された。

 そのひとつ、脚本・撮影・出演まですべて自分たちで手掛けた創作ビデオ「現代で歩く大坂の陣」は、亡霊として現れた真田幸村と3年生の男子中学生3人が一緒に、三光神社や安居神社、大阪城を歩くというストーリー。「なんで幸村さん、大阪弁話すんですか」の質問に、亡霊の幸村は「死んでから400年も大阪にいてたんや。そよから大阪弁になってしもたんや」と応戦するなど、随所に笑いを散りばめた力作であった。

 2つ目のプレゼンテーション「繁信の戦術」は本格的な研究発表。真田昌幸が指揮した上田合戦での籠城戦が成功したのは、真田一族が農民を大事にしてきた土台があったから。さらに籠城とは通常、守りに徹するが、真田の籠城は攻めの籠城だと看破。今回の真田丸の戦いも攻めの籠城であると結論づけた。そして、大坂の冬の陣でも夏の陣でも信繁は旗印に六文銭を使っていない。これはなぜか。課題として研究したいと締めくくった。

 1階でも3年生の作品を数多く展示していた。その一部を写真でご紹介しよう。

当日配布されたプログラム
当日配布されたプログラム



 

真田山公園に真田幸村の花壇

 さて、真田丸の話から、今度はその敵地の話に。大坂冬の陣では、真田山公園のあたりは、真田丸と対峙する前田利常の陣地があったといわれている。今、公園の一角に花壇があり、9月に植え付けした「シャポード・幸村」が見事。六文銭をあしらった幸村の帽子(兜)を花で表現している。



 

2015年11月13日

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玉造の最寄駅

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大阪市天王寺区玉造本町1-2

「真田丸」はここだ! 玉造地図

大阪歴史博物館が推定した真田丸跡をめぐりながらお店めぐりも。

愛用のカメラとICレコーダーです
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玉造イチバンの管理人です。私は玉造で生まれ育ち、今も玉造に住んでいます。たくさんの方に玉造を知ってもらいたく、2013年2月にこのサイトを立ち上げました。玉造を盛り上げる情報を発信していきたいと思っています。