鉄砲研究家の澤田平さん「眞説 真田幸村公展」

この顔に見覚えあり! もしかして…

はいそうです、テレビ番組「開運!なんでも鑑定団」でおなじみの鑑定家、澤田平(さわだ・たいら)さんです。気さくで、ユーモアあふれる物言いはテレビ番組のまま。

「わたしは町のおっさんにすぎません。でも大阪は町人学者の伝統があります。その流れを汲んで、昔からずっと本業のかたわら、研究を続けてきました。わたしは酒も煙草もやりません。ギャンブルする度胸もありません。この顔ですから、女にもてません。鉄砲一筋で生きてきたんです」と、こんな調子。

 本業は整骨院経営。しかし、愛知・三河の砲術師を先祖にもっていたことから、独学で古式銃や砲術を研究。さらに、火縄銃や和時計のコレクターとしても有名です。全国各地の鉄砲隊を指導してまわり、長年、大阪城真田鉄砲隊の火縄銃演武披露の指導に当たるほか、堺鉄砲研究会の主宰を務めています。

 

真田幸村コレクションを一堂に 

20151122日、大阪市天王寺区で行われた「たかつ ふれ愛フェスタ2015」に澤田さんが集めた、真田幸村ゆかりの所蔵品が出張展示されました。

 

展示会最大のみどころ「家康狙撃の銃」

たくさんの来場者でにぎわった展示会場の中で、ひときわ目を集めたのが「真田幸村公 家康狙撃の銃」。豊臣と徳川が戦った「大坂夏の陣」最後の決戦で、真田左衛門佐信繁(幸村)が徳川家康の陣に突撃。そのとき、幸村は馬上から家康を狙撃せんと銃を向けた、それがこの火縄銃だというではありませんか。

 

戦国時代は銃のハイテク戦

えっ? 幸村は家康を銃で撃とうとしていたのですか? そんな話、聞いたことありませんけど…。

 

 紀州家に残る「南紀徳川史」にちゃんと書かれています。幸村公が今や家康を狙撃しようとしたときに、馬が揺れて、手にしていた馬上宿許筒(ばじょうしゅくしゃづつ)を取り落としてしまったため、家康は家臣に守られ逃げ去った。これが運命の分かれ目でした。真田軍は敗退し、幸村は安居神社で討たれてしまう。幸村が落とした馬上筒は紀州徳川家に伝わり、明治時代まで密かに保存されていたんです。

「南紀徳川史」には「器の巧拙今にして論ずるべきに非るも、三百年のむかし既に此器あるは驚嘆に堪へざりし也。宿許銃は真田左衛門が神祖(家康)を狙撃し奉りしものと語れり」と記述され、精細な絵図も付けられています。馬上宿許筒は速射連発できる、当時のハイテク銃です。その実物を、わたしが米国の元将校から買って取り戻しました。それが、これです。

 

なんと、びっくりな話! 当時は、馬上で銃撃戦をしていたのですか。

 

 当然です。関ヶ原から大坂の陣まで日本は鉄砲王国であり、ヨーロッパ全土より数が多かったのですから。真田丸での戦いも銃撃戦でした。真田丸の中には、おそらく、世界最大といっていいほど、莫大な数の銃があったはずです。幸村公は自ら武器を開発していたほど、ハイテク戦の鉄人でしたから。

 

 幸村公は九度山時代「発明王」であった 

 昌幸・幸村の親子が紀州・九度山にいたときに使っていたもの、持っていたものを精力的に集めだしたのは40数年前。その頃は、幸村公の所蔵品などに興味が全然向けられていなかったので、自分のような者でも買えたため、休みごとに九度山に通い、コツコツ買い集めていました。大枚をはたいて手に入れたものも少なくありません。中には不動産を売ってまで買ったものもあります。

 

集中的に集めてわかったことがありました。幸村公は九度山時代、たくさんの発明を手掛けていました。さまざまな種類の火縄銃にはじまり、鎧に、秘薬に、日用品など、それはもういろいろ。発明品の数々を見ていただこうというのが、この展示会のテーマでもあります。

真田紐
真田紐

 

九度山時代が人生最大の充実時期 

幸村公はもともと頭のいい方でした。九度山時代は考える時間も工夫する時間も十二分にありましたから、発明するにはもってこいでした。幸村公が生み出した真田紐や秘薬はいわゆるオンリーワン商品。儲かるんです。だから幸村公は大金持ちでした。

 

 えっ?? そんなことありえませんよ。すごい貧乏だったはず。だって、信州にいるお兄さんに、お金を送ってほしいと手紙を送っていたんですよ。

 

それは見せかけ。徳川の監視下にあったわけですから、カムフラージュするために書いた手紙です。幸村公所蔵の刀や小箱には、お金を隠すための仕掛けがこしらえられていて、箱の底、刀の鍔の内側から小判が出てきました。その豊富な資金で、さらに発明を進めていたんです。経済力もあって、さまざまな発明を手掛けていた九度山時代は幸村公にとって人生で最も充実していた時代でした。不遇だったというのはウソ。

隠し金の仕掛け
隠し金の仕掛け
箱の底にお金を隠す仕掛けが
箱の底にお金を隠す仕掛けが


真説「幸村の強さは九度山でつくられた」

14年過ごした九度山に、豊臣秀頼のつかいがやって来たのは突然の出来事でした。幸村公は勝つつもりで大坂城へ入城したと思います。大坂へ持ち込んだ兵器、たとえば真田軍が使った5丁揃の鉄砲や地雷火など、経済力がなければ、持っているはずのないものばかり。なにより、入城してすぐさま、戦国スターの武将らが集まる大きな合戦の中に飛び込んで、日本一兵(ひのもといちのつわもの)と呼ばれるほどの活躍をするわけですよ。蟄居の14年間、ブラブラしていたのでは、こうはいきません、絶対に。

 

古地図や古文書だけが歴史資料というわけではありません。残された品物から入るのが〝澤田平″流。時代を読み解き、それを使っていた人物までも浮き彫りにできます。幸村公所蔵の品々が語っています。幸村公の強さは九度山時代に養われたものであると。これこそが真説だとわたしは信じています





 

2015年11月13日

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愛用のカメラとICレコーダーです
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玉造イチバンの管理人です。私は玉造で生まれ育ち、今も玉造に住んでいます。たくさんの方に玉造を知ってもらいたく、2013年2月にこのサイトを立ち上げました。玉造を盛り上げる情報を発信していきたいと思っています。