57年間、玉造の暮らしを支えた

日の出ショッピングプラザ

8月末に閉店


「皆様 ごきげんよう さようなら」

 

日の出通商店街の入口にある「日の出ショッピングプラザ」が831日を最後に閉店した。地元の市場(いちば)として親しまれてきたが、近年は空き店舗が目立つようになり、最後に残ったのはわずか4店舗。最終日は、なじみのお客さんが次々訪れ、別れを惜しんだ。(2013831日取材)

 


「日の出ショッピングプラザ」は10階建てマンションの1階部分に設けられた集合店舗の市場。約170坪の敷地に、オープン当初は12店舗が入っていた。近年、撤退する店が増え、寂れた感じが否めなかったが、固定客が店を支え続けてきた。

洋品店「コトブキ」の石垣喜章さんと、奥さんの実津子さん
洋品店「コトブキ」の石垣喜章さんと、奥さんの実津子さん

  

 石垣喜章(よしたか)さんは、ショッピングプラザ入口にある洋品店「コトブキ」の店主であり、また日の出ショッピングプラザ商人会長でもある。

 

 石垣さんによれば、日の出ショッピングプラザの出発点は、昭和31年(32年という説も)にオープンした日の出中央市場。その当時、近辺には、今の玉造2丁目6番地あたりにあった玉造市場と、日の出通商店街のパン屋さん「リビエラ」あたりに開設していた日の出市場があったそうだが、2つが閉店すると、地元で一番にぎわう市場となった。

 

木造建てで、戸板1枚の間仕切りで25軒近い店が並び、魚屋・八百屋・肉屋・漬物屋・惣菜屋・花屋など、毎日の暮らしに必要なものはほぼ網羅していたという。

 

石垣さんが市場に出店したのは昭和40年。数年後には玉造初のスーパー「トーエイ」がオープン。買い場がどんどん近代化していたにもかかわらず、市場は夏は扇風機、冬は練炭の旧式のままであった

 

昭和62年、市場を取り壊し、10階建てのマンションを新しく建て、その1階にテナントとして入ることが決定。敷地が狭くなるため、約半分が退店した。1年後の63年、「日の出ショッピングプラザ」として再スタートを切った。

 

「再入店したときはうれしかった。冷暖房がついて、電気も明るくなって。市場の全員で『これまでの暗いイメージを払拭しよう!』と意気込んだ」と石垣さん。 

 

最後に聞いてほしい思い出話 

48年商売した中で最も強烈な3日間

 

 その7年後、思いもかけない話が舞い込む。地権者から1階部分を買い取ってもらえないかと相談を持ちかけられたのだ。

 

「みんなでお金を出し合い、買い取ったのが平成7年。我々のものになったという喜びは大きかった」

「所有権の移転も終わり、お祝いに、みんなで富士山を見ようやという話になった。買い取って、これからお金もようさんいるわけやけど、まぁそんなん働いたらなんとかなるやろうってことで、1月1516日、バスをチャーターして新年旅行に行ったん」

「ところが、行きは大雪。途中、通行止めになり、運転手さんが引き返しますわと言うのを『もうちょっと待ってや』となだめてたら、運よく除雪できて、焼津港まで行ったんですよ。富士山がきれいに見えてね。翌日も一日富士山を観光して、よかったなぁと帰ってきて、あくる日の朝ですわ、阪神淡路大震災。市場はどないもなかったんで、通常どおり営業させていただいた。神戸へ物資を送りたいからと、たくさんお客さんがお見えになりましたわ。市場にないものも工面して、神戸へ送り出しするやら…しばらくはてんやわんやで…」

最後の日の「コトブキ」
最後の日の「コトブキ」

 石垣さんが市場で商売をしていた48年間で、最も鮮烈な思い出だそうだ。

 

 

気がついたら、店主が高齢化 

閉めどきが来たと腹をくくった

 

 全員で1年に1度、旅行に行くなど、市場の人たちは仲もよく、団結力も強かった。しかし、「どの店もご店主が高齢になって、ハッと気づいたら平均年齢70歳になっていた。病院通いが多くなり、跡継ぎさんがおらへん、そんな店が増えていき、私の感覚では5年前ごろから、市場もそろそろかなぁ…と感じるようになってきた」

お客さんから贈られた花束を手に
お客さんから贈られた花束を手に

「去年の6月ごろに、売却しようという話が出て、それから毎晩寝られへん…」

 ソフトランディングかハードランディングか、結末を心配したそうだが、「痛みもあったけれど、ちょうどいい頃合いで片付いたと思う」と話します。

 

「私自身はなにもかも満足。やりきったという感じ。後日、みんなで集まってお別れ会をしたい」と笑顔を見せた。

創業80年 百合食品

「ショックやった。 今やめたら、病気になっちゃう」

翌々日から2階の厨房で再スタート


  ショッピングプラザの一番奥にあるのが「百合(ゆり)食品」。 

 お袋の味の煮物、天ぷら、ちらし寿司など常時30種類が並ぶ。味はもちろん、女主人、北濱惠美子さんの笑顔が絶品。どんなときも笑みを絶やさず、元気いっぱいだ。

 

去年秋ごろかな、総会から帰って来た主人から『売却することに決まった』と聞いて、ショックやった。今やめたくない、あと2、3年したい。今やめたら病気になっちゃうって言うたん」

 

「百合食品」は父の代から80年続く惣菜屋。「わたしは小学校5年生のときからこの商売してるん。母親が細くて、体が弱い人やったから、常に手伝うって感じで。戦争で全部焼け、戦後は玉造市場で店をしてたんやけど、ここの市場ができてすぐに移ってきたん。だから、一番古株」とニコニコ。

 

 「わたしんとこは2階に厨房があるので、あさって92日から2階で店を始めるの。主人とふたり、1100個ぐらいはお弁当を作れると思う」

「えっ、元気の秘訣? 朝5時に起きて、準備して。お客さんとしゃべって活力もろうて」

すでに気持ちは新しい明日に向かっている。

 

 

和菓子の店 栄壽堂

根強いファンと握手の別れ

「できるなら、この場所で、まだ続けたい…」

 

左下)最終日の予約 上)お客さんから届いたお花
左下)最終日の予約 上)お客さんから届いたお花

最終日、一番にぎわっていたのが和菓子の店「栄壽堂(えいじゅどう)」。店の壁には予約の注文書が30枚近く貼られ、お客さんがひっきりなしに来店する。

 

店頭では「お世話になりましたね」「こちらこそです」。ご主人の鯛寿夫(たい としお)さんと奥さんの笑子(えみこ)さんがお客さんと握手を交わし、思い出を懐かしんだ。お客さんの中にはうっすら涙ぐむ人や、去りがたい様子の人も見られた。

 

生野区で店を約10年したあと、昭和56年、ここに移店。

赤飯・つきたての餅・あんみつ・饅頭など、人気商品がいくつも。中でも、店の看板商品といえるのが昭和56年に菓子大賞を受賞した「おふくろまんじゅう」。4歳のときに父を亡くした寿夫さんが、苦労して育ててくれた母に感謝を捧げるために創作した一品だ。

 

栄壽堂の魅力はおいしい饅頭だけではない。お客さんへの気配りのきいたご主人の声かけや、奥さんの優しい応対が店のファンを増やした。

 

閉店後は現役を引退する。「このまま、まだ続けたい」と笑子さん。残念な思いが声にこもっていた。

 

 

塩干物の店 藍原商店

商売して60年、生き字引き的存在 

人生造ったサバ・サンマ・イワシ 


 日の出ショッピングプラザは壁に沿って、店がぐるりと並ぶほか、まん中に島を作り、そのまわりにも店が並ぶ配置である。そのまん中の島で唯一残っているのが藍原(あいはら)商店だ。塩サンマ、塩鮭、ちりめん、たらこなどを扱う塩干物(えんかんもの)の店。

店主の藍原隆継さんは日の出中央市場の開設と同時に、鶴見から移ってきたという。

 

台に並べた、量り売りのちりめんを眺めながら、「食生活がすっかり変わってしまったけど、うちんとこはこういう売り方しかでけへん」

 

隆継さんは18のときから商売の道に入り、「人生造ったのはサバ・サンマ・イワシ」と語るほど、店売りに励んだ。店の前を通る人には、いつでもだれにでも愛想よく声をかけるなど、生粋の商売人でもあった。

 

お客さんから声がかかる。「おっちゃん、ここ閉めたあと、どっかで店すんの?」「なに言うてんの、今年80歳なんやで」の返事に、「えっ、そうなん!」。明るい笑い声が市場に響いた。

 

 

肉とコロッケの店 丸佳精肉店

5月31日閉店、「店をやめるときが一番うれしかった」

売れて売れて、最後の1ヵ月で半年分働いた

社員だった松尾芳恵さんは「家族経営と思われていました」と語る
社員だった松尾芳恵さんは「家族経営と思われていました」と語る

 ショッピングプラザ入口にあった「丸佳(まるよし)精肉店」は531日にすでに閉店している。荷物の後片付けに来ていたご主人の田中稔さんは「ここで40年以上商売させてもろうた。でも、イズミヤができ、近商ができ、森ノ宮にもコーヨーができ、スーパーに取り囲まれて、にっちもさっちもいかなくなった。51日に“今月いっぱいで店を閉めます”の貼紙を出すと、お客さんがずっと来てくれて。中には、毎日来てくれ、1ヵ月で40キロ、ひとりで買(こ)うてくれはったお客さんもいた」

 

「丸佳」はコロッケがおいしいと評判だった。そのコロッケを30年間揚げ続けたのが松尾芳恵さん。

「揚げ油にこだわっていましたから。大将がイチから自分でこしらえた純100%牛脂の油。これで揚げるからおいしかったんです。最後の月の5月は、毎日ずっと、普段の2倍売れて、もう倒れるかと思うほど忙しくて。ひとりで100個買われて行くお客さんもありましたから」

 横でうなずく大将の田中さんは「コロッケは、店をやめるときが全盛期でしたね」

 

「丸佳」の前を通ると、大将が「山本さん」「吉田さん」と名前でお客さんに呼びかけ、大きな声で挨拶していた。実は、大将は、お客さんひとりずつの似顔絵を書いて、名前を頭にたたきこんでいたそうだ。

 

そんな陰の苦労が最後には実った。

 「終わりの1ヵ月は盆と正月がいっぺんに来たかと思うほど売れて売れて、牛を追加で注文したほど売れましたね。そのうえ、お客さんから花束や手土産、餞別やら、たくさんもろうて…。やめるときが一番うれしかった」。田中さんは感無量な面持ちで話してくれた。

 

 

昔ながらの対面販売

目と目、心と心を合わせ買い物できた

 

振り返ると、個性豊かな店が揃っていた。

 対面販売が敬遠されるようになり、スーパー全盛であるが、日の出ショッピングプラザには世間話を交わしながら買い物できる温かな雰囲気があった。子どもを連れていると、お菓子をくれたり、「今日はなにする?」と夕飯の相談に乗ってもらったり…。

57年にわたって玉造の暮らしを支えた日の出ショッピングプラザが静かに、しかし胸を張って退場していく。大きな拍手で見送りたいと思う。

 

2013年8月31日取材)

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市場にはこんな店もありました

 

ひと足早く、閉店しました… 

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玉造の最寄駅

JR環状線「玉造駅」

大阪市天王寺区玉造元町1-40

地下鉄長堀鶴見緑地線「玉造駅」

大阪市天王寺区玉造本町1-2

「真田丸」はここだ! 玉造地図

大阪歴史博物館が推定した真田丸跡をめぐりながらお店めぐりも。

愛用のカメラとICレコーダーです
愛用のカメラとICレコーダーです

玉造イチバンの管理人です。私は玉造で生まれ育ち、今も玉造に住んでいます。たくさんの方に玉造を知ってもらいたく、2013年2月にこのサイトを立ち上げました。玉造を盛り上げる情報を発信していきたいと思っています。