大澤さんの仕事道具

大澤研一(おおさわ けんいち)さん

 出身は岩手県。大学入学と同時に大阪へ。卒業後、大阪市立博物館に、平成13年からは名前と場所を変えてリニューアルした大阪歴史博物館に勤務。得意分野は戦国時代から江戸初めの歴史や絵図。地図を見ながら町を歩くのが好き。職場の最寄駅は地下鉄谷町四丁目駅だが、ときどき帰りに谷町六丁目や上六、天王寺まで、きょろきょろ周りを見ながら歩いているとか。

大阪歴史博物館
大阪歴史博物館
大阪歴史博物館玄関
大阪歴史博物館玄関
玉造に残る古道
玉造に残る古道

豊臣時代、城下町に組み込まれていく玉造村

大澤研一さん大阪歴史博物館の学芸員。古い絵図や地図、古文書を読み解きながら、大阪の町が発展していく過程を研究している。現地調査のため玉造もたびたび歩いているそうだ。

文教地区で、住宅が多いからだと思いますが、玉造は環状線の内側にありながら、すごく落ち着いた静かなところで、大阪とは思えない雰囲気が漂います。でも玉造はかつて、奈良へ向かう大和街道の出入口として、にぎわっていた時代もあったんですよ」と大澤さん。なんだかちょっと切なく聞こえる。

玉造について書かれている一番古い文献は豊臣時代のものだそうで、そこには「玉造村」と記されている。大坂城が造られ、城下町が広がっていくなか、城の南側にあった玉造村は、市中に組み込まれ、城下町の一角になっていく。豊臣家臣の大名屋敷が玉造に数多く作られたのは、ちょうどこの頃。当時の地図や絵図が残っていないため、屋敷の位置などくわしいことはわかっていないそうだが、『玉造に邸宅がある』と大名家の記録に残されているので、屋敷があったのは間違いないという。

(参考記事「豊臣時代の玉造」

徳川時代、武士と町人が暮らす町

玉造の詳細を伝えるのは文化3年(1806)刊行の「増修改正摂州大阪地図」。江戸時代後期の地図だ。

この時代の玉造は、北側と東側に武家屋敷が、中央部分には町屋がある。身分制度が厳しい時代、武士と町人の住み分けが一目瞭然でわかる。

町人町を見ると、仕事を想像させる左官町・木綿町・禰宜町、懐かしい名前の紀伊国町・岡山町・西伊勢町・八尾町…。地図の中から町のにぎわいが聞こえてきそうだ。

ところで、玉造エリアには、当時の大坂市中にはない特徴が見えるという。1つには町人町に「野」「畠」や空き地が点々と残っていること。2つめは、当時の文書を見ると玉造越中町・玉造仁右衛門町・玉造森町といったように、頭に〝玉造"が付く町がこのあたりにいくつも確認されている。大澤さんによれば「玉造村」だった名残や意識をとどめている様子が伺えるという。

参考資料=国立国会図書館デジタル化資料                 「増脩改正攝州大阪地圖」2コマ目に玉造があります http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2541883

玉造つながりの場所が大阪市内にあった!

この古地図には「伏見坂町」という町が玉造にある。大澤さんから、町の由来とその後の話を教えてもらった。

豊臣秀吉が築いた伏見城も徳川時代には廃城になり、徳川2代将軍秀忠の命により、伏見の商人や町人らは大坂の町6カ所に分かれて移り住む。転居先のひとつに選ばれたのが玉造だ。伏見坂町は、伏見にあった同名町の住人が集団で移り住んだと考えられている。

 承応3年(1654)、玉造に住む伏見の人たちに再び引っ越しを命じるお達しが出た。森ノ宮の北側に武家屋敷を増設することになり、その一帯に住んでいた伏見の人たちに大阪市西区の北堀江と新町あたりに転居せよというのだ。

大澤さんが西区の地図を広げて「この辺です」と指さすあたりを眺めていると、『玉造橋』という名前を偶然発見!「伏見の人たちが付けた名前でしょうか?」と興奮気味に私が問うと、「おそらく、そうだと思います…」と大澤さん。玉造を忘れたくないという、はるか昔のメッセージを受け取ったようで、ジーンときた。

玉造橋は、今は新町4丁目と北堀江4丁目の長堀通交差点のことをいう。〈西区に遠い親戚を見つけましたよ〉

玉造に今も残る古道がある!

小学生のころから地図を見るのが好きだったという大澤さん。大学では日本史学を専攻し、卒業と同時に、大阪歴史博物館の前身である大阪市立博物館に就職。以来25年、学芸員の道を歩んできた。調査や検証によって、新しいことを発見し、それをたくさんの人に伝えられるのが、この仕事のやりがいだという。

今の研究テーマは古道。大阪市内を通っていた古い道を追いかけている。 最近一番手ごたえがあったのが熊野古道の調査。大川から四天王寺までの熊野古道の道筋を検証し直し、確かな道を新たにつきとめた。

「実は、玉造にも、昔の道筋をそのまま残す〝古道〟があります。東西の道としては、かなり重要な役割を果たしていたと考えられます」

長堀通を北へ1本入った、大阪美容専門学校と大阪女学院のあいだの道がそれに当たる。松屋町筋の内安堂寺町通3丁目から玉造筋まで東に向かってまっすぐ続く道を、古地図どおりにたどって調査したそうだ。

         

                 2013313日取材Copyright(C)2013

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玉造1丁目にある伏見橋旧跡碑

 

 

町名継承碑には伏見坂町→東阪町→

玉造1丁目・森ノ宮中央1丁目の変遷が


大阪市西区交差点「玉造橋」


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玉造の最寄駅

JR環状線「玉造駅」

大阪市天王寺区玉造元町1-40

地下鉄長堀鶴見緑地線「玉造駅」

大阪市天王寺区玉造本町1-2

「真田丸」はここだ! 玉造地図

大阪歴史博物館が推定した真田丸跡をめぐりながらお店めぐりも。

愛用のカメラとICレコーダーです
愛用のカメラとICレコーダーです

玉造イチバンの管理人です。私は玉造で生まれ育ち、今も玉造に住んでいます。たくさんの方に玉造を知ってもらいたく、2013年2月にこのサイトを立ち上げました。玉造を盛り上げる情報を発信していきたいと思っています。